ハマの番長と黒羽根少年の約束!

「(少年時代の)夢が実現できてうれしいっ!」
歓声とどろくお立ち台で、あふれる喜びに満面の笑みで語ったのは、横浜DeNAベイスターズ(当時、横浜ベイスターズ)の黒羽根捕手でした。

そんな黒羽根捕手を慈愛のまなざしでやさしくみつめるのは、ハマの番長、三浦大輔。2011年8月14日、三浦に140勝目が記録された熱い試合が甦ります。

少年の夢というのは、純粋で青空を突き抜けるパワーに満ちているでしょう?
ことのはじまりは1998年、京急百貨店で三浦 大輔と鈴木 尚典が招かれて開催されたトークショーで、地元の少年野球チーム「上大岡ハンターズ」の代表として三浦大輔に花束を手渡したのが、当時小学生だった黒羽根少年だったのです。

「大きくてかっこいい、あんなふうになりたいな」 三浦大輔にあこがれていた黒羽根少年は「将来はベイスターズに入って一緒に野球がしたいです」と話し、三浦大輔は「一緒にプロでやろう!」と返事をしました。

「三浦選手とバッテリーを組むんだ!」
黒羽根少年は抱いた夢を現実のものにするために努力に努力を重ねていきます。日大藤沢高校に入り活躍、2005年の高校生ドラフト3巡目で横浜ベイスターズに指名されみごと入団をはたしました。

しかし、プロの世界は競争もはげしいもの。1軍入りにはなかなか届きません。

かたや、2008年、三浦にとってはプロ17年目の年。三浦大輔はFA権を取得。阪神から熱烈なラブコールを受けます。

関西で生まれ育った三浦にとって、子供の頃から憧れていた阪神へのFA移籍はとても魅力ある話でしたし、かなり濃厚で、誰もがエースは横浜を出て阪神入りすると予想を立てていたことでしょう。

阪神からのオファーも力の入ったもので、横浜が提示した3年契約総額10億円よりも、さらに2億円を上乗せした金額を阪神は提示。しかもリーグ2位でこのころ毎年上位争いにくいこんでいる阪神なら優勝の可能性も高いはず!
 
しかし、予想に反し、三浦大輔投手は最下位のチームに残留することを決断したのです。

彼は語ります。
「(奈良・高田商高での)高校時代も打倒天理、打倒智弁学園で甲子園に出たいと思ってやっていた。横浜は今年優勝から一番遠い位置だった。しかし、三浦大輔の原点は何かと考えたら、強いチームを倒して勝つこと。強いチームに勝って優勝したい」

当時7年連続の負け越し球団だった横浜ベイスターズの関係者、そしてファンたちは、この言葉を聞いて涙腺がゆるまないものはいなかったでしょう。

また、男、三浦大輔は、阪神に電話で断りを入れるのではなく、自ら現地に出向いて直接丁寧に挨拶し、誠意を見せています。

そして、迎えた2011年8月11日、黒羽根捕手は一軍に昇格。スグの14日の中日戦で、三浦とはじめてバッテリーを組むことになります。黒羽根は内角へのストレートに右打者へのインスラやスローカーブなども交えて中日打線の狙いを外して7回一死までノーヒットに抑える三浦の好投を引き出し、三浦に140勝目が記録されました。

お立ち台では先に三浦大輔の口から13年前の黒羽根少年とのエピソードが語られ、さらなる感動を呼びました。それ以降、三浦は基本的に黒羽根を指名。ベイスターズ残留の理由のひとつに、少年との約束も入っていたのかもしれませんね。

参考資料:http://matome.naver.jp/odai/2131335991252234801
     http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/sensyu/00n/kurobane_toshiki.htm

スマトラ島沖地震を生き延びた少年、プロサッカー選手の道へ!

最大34メートルという巨大な大津波。
2004年12月26日に発生したスマトラ島沖地震はマグニチュード9.1という、史上2番目となる大規模な地震でした。

この大津波にのまれながらも、生き延びた少年がいました。少年の名前はマルトゥニス。奇跡の生還を果たした彼は17歳になり、日本代表のFW田中順也が所属するポルトガル1部リーグ、スポルティング・リスボンと契約を結びました。

そのきっかけとなったのが、23万人以上の命を奪い、甚大な被害をもたらしたスマトラ島沖地震です。

当時、7歳だった少年マルトゥニス君は、地震が発生した時、友達とサッカーを楽しんでいました。ビルよりも高い大津波が多くの人をあっと言う間に飲みこみ、海中へと引きずりこむなか、マルトゥニス君はマングローブにしがみつき必死にこらえました。救出されるまでの21日間、彼はたった一人で沼地の水をすすり、乾燥めんを食べて飢えをしのぎ、奇跡的に生き延びたのです。

救出された時、マルトゥニス君はポルトガル代表10番ルイ・コスタのレプリカユニフォームを身に付けていました。その姿をメディアで目にしたポルトガル国民、そして、サッカーの選手たちはハートを大きく揺さぶられ感動したことでしょう。

また、これを知ったクリスティアーノ・ロナウドも、インドネシアを訪れてマルトゥニス君を激励。彼を支援し、親交を深めていきました。

大津波によって母と2人の兄妹を失ったマルトゥニス君でしたが、悲しみを乗り越え、大好きなサッカーの道を選び、プロのサッカー選手を目指して努力を重ねていきました。

そしてついに、スポルティング・リスボンが、17歳になったマルトゥニス君を招く事を発表! 彼は下部組織U-19チームでプレーするチャンスを手にしたのです。

入団が決まり、スポルティングは7月2日、「彼は一人の男性、そしてサッカー選手になるため、ここで生活し、勉強していくことになる」とコメント。

マルトゥニス君は会見で「僕の夢だったスポルティングに入ることできて嬉しい。チャンスを与えてくれたことに感謝している。ビバ(万歳)、スポルティング!」と喜びに満ち溢れていました。

彼を支援してきたロナウドも、じつは12歳の時にスポルティング・リスボンの下部組織に入団。U-16、U-17、U-18、Bチームを次々と駆け上がり、トップチームに昇格。

憧れのロナウドが育ったスポルティングで、マルトゥニス君にも輝かしいプロへの道を駆け昇って欲しいですね。

参考資料;http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150703-00010001-footballc-socc

WBC2013 魂のベストゲーム~日本vs台灣~

2013年。
震災からまもなく2年が経とうとする、3月8日に行われたWBCでの日本対台湾の試合。
9回2アウトから、土壇場での逆転。
この試合は多くの日本人を感動させました。

しかし、試合後。
地上波では放送されなかった、台湾チームの振る舞いにより日本人の多くが驚くこととなります。
それは。

ツイッターの呼びかけから

6日のこと。
ある一人の日本人ユーザーがツイッターで

wbc
WBC、日本は初戦が台湾に決定。
この試合を見に行かれる方、先般の東日本大震災への台湾からの多大な支援のお礼の横断幕やプラカードをお願いします。
WBCを通じ、日本と台湾の信頼関係を深め、私達が本当に台湾に感謝している事を伝えて下さい

と呼びかけました。

東日本大震災で、台湾は世界最多となる200億円以上の義捐金。
毛布、衣類、食品等400トンを超える様々な支援物資を送ってくれました。
それだけではなく「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」と
要請があればいつでも援助隊を出動可能な状態に待機させ、いちはやく派遣してくれたのも台湾。
そのことに感謝を示したい。

そんな思いから、この呼びかけはまたたくまに日本中に拡散。
ところが、このツイートは日本だけにとどまらず中国語に翻訳され、台湾にも広まります。
しかし、すでに試合のために来日していた選手はこのことを知りませんでした。

礼には礼でこたえる


試合当日。
日本人側のスタンドには、ツイッターの呼びかけに答えた、「謝謝台灣(ありがとう台湾)」とかかれたプラカードを持つ多くのファンの姿が。
台湾の選手は、それを見て初めてプラカードの存在に気づきました。

これが、WBC史上に残る名勝負の幕開けでした。

試合は、台湾の優勢で日本を追い詰めます。
ところが夜23時半を超えても、この名勝負には決着がつかず、10回表、ついに日本が逆転します。
その裏、最後にはまるで高校野球のようなヘッドスライディングを見せる台湾選手でしたが、追いかけてきた背中にあと一歩届きませんでした。

しかし、この物語はここまでではありませんでした。
日本の地上波では放送されなかったシーン。
勝利し、喜びを爆発させる日本選手たちの後ろで、ベンチを出ていく台湾選手たち。
彼らは全員マウンドに向かうと全方向の観衆に向かって深々とお辞儀をしました。
その姿に、ドームにいた観客は台湾の選手たちへ惜しみの無い拍手が送られました。
試合の勝ち負けを超え、どちらも礼儀正しくお互いを讃え合う、礼には礼でこたえるという姿勢。

ホームグラウンドでもない私たちを日本のファンは応援してくれる。
…それに感謝したい

また、多くの日本人がプラカードを掲げ台湾に感謝の気持ちを伝えたいという様子は
インターネットで拡散されたり、台湾のTVでも取り上げられるなど、台湾の人にも感動を与えました。

<参考>
Mr.サンデー
WikiPedia:東日本大震災に対するアジア諸国の対応