祖国に五輪の花を咲かせたい!本当のおもてなしの心とは…

2020年には56年ぶりに東京でオリンピックが開催されます。

2011年に起きた東日本大震災の際、援助協力してくれた多くの国や団体にお礼と復興の姿を見せるため、2013年の決定から急ピッチで準備が進められています。
招致にはたくさんの人が関わって「チームジャパン」として活躍しました。
国・都・各職員、現役選手まで東京でオリンピックを開催するために力を尽くしたと思います。

前回の東京オリンピックは1964年、それまでのオリンピックはヨーロッパかアメリカでしか開催されたことがありませんでした。しかも日本は第二次世界大戦では敗戦国、戦後復興がようやくできてきたところだったため、立候補しても開催地に選ばれる可能性は限りなくゼロに近かったのです。

まだまだ世界に認めてもらえない…と思い込んでいる日本・日本人に誇りを取り戻させたい!と招致に向けて意欲を燃やしている人がいました。当時の内閣総理大臣 岸信介首相です。

首相は、この招致に向けてある夫婦に協力を依頼しました。
そして、依頼を受けた和田夫妻が五輪招致の実現に尽力してくれたからこそ、欧米開催が通例になっていたオリンピックの歴史を変えたのです。

ただ、和田夫妻はロサンゼルスで青果店を営んでいる日系2世のご夫婦です。そこに首相からの一通の手紙が届くところから始まります。
「JOC準備委員になり、中南米諸国の票獲得に力を尽くしてほしい」

終戦後の1948年のロンドンオリンピックに日本は参加を許されませんでした。
翌年の1949年に、日本の競泳チームが全米水泳選手権に参加を希望するも、アメリカではまだ排日主義が残っており、差別用語で呼ばれている現状だったのです。当然、日本選手団のために宿舎を提供してくれるはずもありません。
その時、宿舎がわりに…と自宅を提供してくれたのが和田夫妻でした。

選手たちの活躍により、日本人が表彰台を独占。
アメリカ人たちの日本人を見る目が変わったと言います。
選手たちは和田夫妻に深く感謝をし、和田さんたち日系人は選手たちのおかげで勇気づけられたのでした。

この時から9年後、選手だった古橋さんはJOC招致準備委員となっており、招致の難しさを痛感していました。
この時のオリンピック招致は、アメリカのデトロイドも立候補しており、IOCの中でも欧米票を獲得できるとして有力視されていました。
日本はアジアの各国の票に期待しても到底かないません。
となれば、欧米以外でたくさんの票を獲得できる地域は…準備委員会が出した答えは中南米諸国でした。
古橋さんたちは、スペイン語も話せてアメリカ在住の和田さんに協力を仰ぐことを決定したのです。

和田さんはアメリカに住んでいるだけで中南米に伝手があるわけではありません。
交渉がスムーズにいく保証もどこにもありません。
和田さんが思い出すのは…
戦中戦後、日系人としてアメリカ社会で虐げられたこと
古橋さんたちの活躍で日本人として誇りをもてたこと

しかし、いまだ多くの日本人が日本人としての誇りを持てずにいる
だから、オリンピックを日本で開催して日本人の誇りを取り戻してほしい

和田さんは奥さんと共に険しい交渉の道を歩むことを決めました。

まずはIOCで2票持っているメキシコに向かいました。
知り合いの農村で委員の人や選手を知っているか尋ね歩くところから始まりました。

和田さんは1から種をまき、メキシコの委員を紹介してもらえるところまでたどり着きましたが、メキシコはアメリカから経済援助を受けており日本を応援するのは厳しいと言われたのです。
「焼け野原だった日本にビルが建ち経済的に復興している。けれども日本人としての自信を取り戻せていない。欧米以外で初めてオリンピックを開催することで本当の意味での復興を果たしたい。そしてメキシコの五輪開催にむけて力を貸したい。一緒に夢を叶えましょう!」その言葉を聞いて、和田さんにブラジルの委員宛ての手紙を託しました。
「メキシコは五輪開催地を日本にすることに応援します。共に応援しましょう。」

同じくブラジルは2票持っている国ですが、ブラジルでは「IOCの総会に出席したくても経済的に参加できない。2,000ドルの資金援助をお願いできますか。」と言われました。ブラジルの日系人会に必死の説得をして、2000ドルの寄付を得ることができました。こうしてブラジルの応援もとりつけることができました。

そして、他の中南米諸国もくまなく回り、賛成への同意を得ることに成功したのです。

結局、準備委員からの依頼があり、開催地決定の会議が行われるミュンヘンまで自費で渡航し、最後のお願いと票固めをした結果…

1964年夏季オリンピックの開催地が日本に決定しました。
10月10日、国立競技場で開会式を見守る和田夫妻は嬉しさと共に、本当にがんばった日本・日本人を見て誇らしく感じたそうです。

そして、和田さんは一緒に夢を叶えるためにメキシコに渡り、五輪招致に向けて尽力しました。
1968年夏季オリンピックはメキシコシティーに決定するところまでやり遂げたのです。
メキシコ大統領からは感謝状が贈られました。

「和田さんは任務からではなく、心から五輪開催を望んでいました。それが多くの人を引きつけたに違いありません。」
メキシコの委員の方が言っています。

何もないところに種まきから始めなくてはいけない。必ず祖国に五輪の花を咲かせたい。

和田さんが信念をもって進んだ道には大きな花がたくさん咲いていました。

2020年の東京オリンピックでもたくさんの人の希望の花となることを祈りたいです。

参考資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/近代オリンピック

tvtopic.goo.ne.jp

どんな仕事もクリエイティブ!~あるレジ打ちスタッフの気づき~

自分がやりたかったことと違う!

そう言って仕事を変えてしまう人はいるかもしれません。
そもそも、自分のやりたいことが社会にそのまま用意されている…ということは幻想ではないでしょうか?

現在たくさんの方が従事している「レジスタッフ」ですが、その仕事を単純作業と捉えるか、たくさんの創造がある仕事と考えるか…これはある女性のお話しです。

彼女は思い返せば何をやっても続けることが苦手でした。
上京して大学に入っても、何かが違う…と嫌になってサークルを転々とするようなところがあったのです。

いよいよ就職の時期になり、彼女なりに吟味してメーカー系企業に勤めることとなりましたが、3カ月で上司と衝突して退職。
「つまらない」「私がやることではない」「私がやりたかったことではない」とその後も就職先を転々とすることとなります。
当然、彼女の職務経歴書は短期での就職と離職がたくさん記載されることとなり、正社員での採用が思うように決まらなくなっていくのでした。

けれども、生活のためにも働かなくてはいけないと感じた彼女は、派遣の登録をすることにしたのですが…
派遣先の社員の人たちとトラブルを次々と起こし辞めることになる…派遣社員としても十分に勤めることができなかったのです。

会社から次に紹介されたのはスーパーの「レジ打ちスタッフ」でした。
この当時は、現在のように商品をかざせば代金が入力されるシステムはまだなく、ひとつずつ手打ちしなくてはなりません。
技能としてはタイピングの技術も必要です。

勤め始めて1週間もしないうちに、彼女は「こんな単純作業がやりたいわけじゃない!」と思い始めていました。
ちょうど、娘の気持ちがわかっているかのように母親から連絡があり、「無理をしないで帰っておいで」と言ってくれたのです。

せっかく上京したのだから…と思っていたけれど、ここまでうまくいかない状況が続くと、さすがに彼女も母親の優しさに頼ろうという気持ちになりました。
そして辞表を書き、部屋の整理を始めると、一冊のノートを見つけたのです。それは彼女の小さい頃の日記でした。日記にはしっかりと「将来はピアニストになりたい」と書かれていました。

思い返せば…自分が唯一続けられたもの、それはピアノの練習だけだった…それでも結局やめてしまって、あの頃から何も変わってなくて、嫌だから逃げ出そうとし続けているんだ…
そして彼女は泣きながら母親に「もう少しがんばる」と告げたのでした。

「後少しだけ、2・3日でもいいからがんばってみよう」と心に決め、翌日からスーパーに出勤し始めました。ピアノのことを思い出したからでしょうか、「レジ」ではなく、ピアノを弾くような気持ちでレジを打ったらどうだろう、キーボードの位置だけしっかり覚えれば打つも弾くもそんなに変わらない、自分流のレジ打ちをすればいいんじゃないか!と思っている自分がいました。
レジ打ちを彼女流に極めてみることにしたのです。

レジから顔をあげて打てるようになると様々なお客様の顔が目に入りました。
今まで気にもしていなかったお客様の様子が目に見えるようになったのです。

いつも特売日にやってくるおばあさんが、珍しく立派なタイをかごに入れてレジにやってきました。
彼女は不思議に思って、思わずおばあさんに話しかけたのです。
「今日は何かいいことありましたか?」
「孫が水泳で賞をとったから、お祝い。」
「おめでとうございます。」
そんなことをきっかけに、他のお客様とも短いながらもやりとりをするようになっていきました。

ある特売日、本当に忙しくて彼女は自分の仕事に集中していました。そんな中、店長が店内放送でお客様に呼びかけています。
「本日は込み合いまして誠に申し訳ありません。どうぞあいているレジにお回りください。」
スタッフが増員された…と思いながら必死にレジ打ちをしていると、再度同じ内容のアナウンスがありました。また同じアナウンス…
彼女はおかしいなと思い周りを見てみると、何とお客様は彼女のレジにしか並んでいなかったのです。

店長に向かってあるお客様が
「ここへ買い物だけにきてるんじゃなくて、彼女とおしゃべりもしたいんだよ。だからこのレジじゃないと嫌なんだ。」
「そうそう、特売なんてどのスーパーでもやってるけど、彼女はこのスーパーにしかいないから、このレジに並ばせて」

彼女が泣き崩れたのは言うまでもありません。
「つまらない」「だれがやってもおなじ」仕事と見えても、そこには働く人それぞれの「創造性」が必ずあるはずです。そして、それを受け取る人が必ず存在していることも事実なのです。
だからどんな仕事も素晴らしい!

あなたのクリエイティブが誰かに伝わりますように…。

参考資料
www.forestpub.co.jp/namida/suisen.html
manatakebooks.seesaa.net/article/207091709.html

クラス全員サングラス姿で参加した合唱祭のワケ

高校3年生、みんなで歌う、思い出に残る合唱祭。
その合唱祭に、メンバー全員がサングラスをかけて参加したクラスがありました。沖縄県の宮古島にある、県立宮古高校、3年生のひとクラスです。

そのいでたちに一瞬会場はざわつきましたが、スグにおさまりました。サングラスをみんなでかけたのは、ただのパフォーマンスではありません。れっきとしたワケがありました。クラスの中の一人の女の子を思ってなされた事だったのです。

その女の子は、2011年、中学2年生の時に子宮頸がんワクチンをうけました。ワクチン接種後から、体調がどんどんおかしくなっていきました。呼吸困難、手足のしびれ・・・。入院したこともありますし、体調不良で登校もままなりません。そして、副反応で光に敏感になり、常にサングラスを必要とした生活も送っていました。

高校3年生の思い出に残る合唱祭も、皆に迷惑をかけてしまうからと、はじめは、彼女は合唱祭への参加を諦めていました。そんな彼女をはげまし、同級生は合唱祭の練習に誘いだします。しかし、参加するとなれば、彼女はサングラス姿で出なければなりません。そんな彼女のはずかしく悲しい気持ちを思いやったクラスの一人が声を上げました。
「みんなでサングラスをかけて出よう!」

「みんなの気持ちはうれしいけれど、サングラスを持っていない子に買わせることになってしまうし、そんな迷惑はかけられない」と、彼女は最初、辞退したそうです。しかし、クラスのみんなは、全員サングラス姿での参加に大賛成。ちょうど合唱に選んだ曲のイメージにも合うからと、みんなの意見が一つにまとまりました。

さっそく担任の先生に申し出ると、先生も賛成してくれました。皆がそういう優しい気持ちになってくれたこと、提案してくれたことがうれしくて、先生もみんな揃っての合唱祭参加の思い出をつくる為に行動を開始。合唱祭に関係する方達に説明して回り、周りも反対することなく同意してくれたのです。

そして迎えた合唱祭本番。
クラス全員がサングラス姿で登壇。歌ったのは尾崎豊の「15の夜」です。皆のそろった生命力あふれる歌声、指揮者の男の子がした尾崎豊のもの真似パフォーマンスも大盛り上がり。会場では大拍手がわきおこりました。

皆の気持が一つになった合唱祭は大成功。
ワクチンの副反応で、めまい、痛みなどいろいろな症状に襲われながらも、笑顔で頑張りぬいた女の子。合唱祭が終わった時、クラスメイトから
「ありがとう、おかげで一つになれた。最高のクラスになったね」
と声をかけられました。
「この一言で、大変だったことが全部チャラになった」
そう女の子は語ったそうです。

彼女は11月に県外の病院に入院することに。次の目標は「クラス全員でいっしょに卒業する」こと。新たな目標を胸に、彼女は前に向かって進んでいます。

参考資料:http://withnews.jp/article/f0151021000qq000000000000000W00o0401qq000012641A

毎日届く、クスッと笑える希望のハガキ

キャハハハハーッ!
あまりにも愉快なはしゃぎ声に、ふとふりむくと、なんとも奇妙な格好で自転車にまたがる人がスーッっと通り過ぎた。

ビニールの買い物袋の、手に持つ部分をそれぞれ両耳にひっかけ、風を切って走りぬけてゆく。ビニールの買い物袋は風にはらんで、まるでアドバルーンのように頭の後ろで膨らんでいる。キャハハハハーッ!その笑い声につられてコチラも笑ってしまう。

他にも、ゴミ袋を着た子供を自転車の後ろに乗せている人。大きいビニール製のゴミ袋の3か所に切り込みが入っていて、頭と両腕が出るように子供にスッポリ着せて簡易レインコートにしていた。

そんな日常で見たクスッと笑える出来事をハガキに書いて、毎日雨の日も風の日も一日もかかさず認知症とウツ病を患う遠方の母に送っていた脇谷みどりさん。

送ったハガキは14年間で5000通を超えてました。

平成8年、大分に住んでいた父親から電話が入りました。
「家に帰ってきてほしい!」
突然の申し出に脇谷さんはビックリ。実は、この時、お母さんは重いウツ病を発症していたのです。突然髪の毛を切りだし、火をつけたり、「死にたい」と繰り返す母。パニック生涯、過呼吸、意識混濁・・・。お父さんも疲れ果てて困惑していたのです。

スグにでも助けに行っててあげたい!
しかし、脇谷さんには、重度の障害を持つ、寝たきりの娘がいます。

生まれつきの脳性小児マヒ。どうして自分の子がこんなことに・・・。お医者さんからは「5歳になって自分で座ることが出来たら奇跡だ」といわれました。

しかし、5歳になっても座るどころか首もすわらない。
近所に住む、同じ障害の子供を持つ先輩ママに言われたことは、「あんたやで、あんたが変わらなダメなんや」 
自分の何がいけないの? どうしたらかのこは治るの?

ある時、娘のかのこさんを車に乗せて走っていた脇谷さんは、田んぼに囲まれた道を走る赤い車を見てかのこさんに語りかけました。
「きっと、あの車には幸せな家族がのっているんだろうね。私もかのこを産むまでは幸せだったのに」
自分で吐いた言葉にハッとし、電撃が走ります。
「わかった!かのこ。私だ、私やったんや。お母ちゃん、これから変わるから!」

その時脇谷さんがわかったこと、それは、「かのこさんの病気が治らなくては幸せになれない」と思いこんでいたことでした。

もし、この子が治らなくても、世界一幸せな娘にしたい。そして家族ひとりひとりが輝いていける、世界一幸せな家族になろう!

それまでは、かのこさんが入院すると、子供は病室に入れない病院の規則があったので、小さいころも兄はひとりぼっちでお留守番。なかなか手をかけてあげられない状態でした。でも、お兄さんはみずから3歳で泣くことを辞めたと言います。泣いてもおかんは戻ってこない。大変なんや。自分がしっかりしなくては!そう思っていたそうです。

脇谷さんは、家族に支えられていた事に気付きます。感謝の想いが沸き上がってきました。脇谷さんは、もともと目指していた童話作家の道へ進もうと決意します。24時間介護でしたから、かのこさんの隣にあるアイロン台を机代わりに、執筆活動を始めました。

そんな時に、突然の父親からの電話。帰ってきてほしいと言われても、かのこさんを連れて大分にはとうていいけません。

何か自分にできる事はないだろうか? そこで、脇谷さんは、クスッと笑える出来事をハガキに書いて、毎日大分のお母さんへ送ることにしました。娘から届くハガキを目にし、徐々に大分のお母さんに変化が起こります。ハガキを出しつづけて4年目、大分のお母さんから電話がきました。

「お医者さんが、病院にもう来なくてもいいですよって言ったの」
そうです、いつの間にか、うつ病も認知症も改善されていたのです。

77歳になるお母さんはほほ笑みながら話します。
「おもしろい絵手紙を毎日読むうちに、マイナスの事を考えなくなれたの」

脇谷さんは「とべパクチビクロ」という絵本を出しました。これに負けじと、お母さんまで本を出すまでに!

かのこさんのお兄さんは、今は障害者児童の教育に携わっています。「かのこさんがいてくれたから、自分の道を開くことができました。前世でも、今世でも、そして来世もきっと一緒に切磋琢磨していく縁深き戦友なのだと思います。」とかのこさんへのあたたかい想いを語っています。

一人一人が輝き、前に向かって進めるのは、かのこさんがいたからであり、お互いを思いやる気持ちが力になったからなのですね、きっと。

参考資料:http://www.chugainippoh.co.jp/interviews/konomichi/20120605.html
書籍「希望のスイッチは、くすっ うつ病の母に笑顔がもどった奇跡のはがき」脇谷みどり著

絶望を希望に変えた少年と犬の出会い

ヨーロッパ、特にイギリスでは広く知られている「アナトリアン シェパード ドック」という大型犬は、飼主に忠実で見知らぬものへの警戒心は非常に強いことで知られています。

その生後半年ほどのアナトリアンシェパードが、電車にひかれ重傷を負っている…と鉄道会社から連絡をうけて動物病院に運ばれてきました。瀕死の重傷を負っていましたが、努力の甲斐があって一命は取り留めることができました。ですが、損傷が激しかった左の後ろ足は残念ながら切断するしかありませんでした。
獣医師たちはそもそも不思議な気持ちだったようです。アナトリアンシェパードは警戒心が強く慎重な性格のはずなのに、わざわざ電車に近づくだろうか…治療の過程や後に判明したようですが、どうやら飼主に虐待をうけており、わざわざ線路にくくりつけられていなければ、この犬がこんなことにはならないだろう、ということでした。

大型犬が足を失うと、成犬になった時に体重を支えられず、寝たきりになってしまう可能性が高いのだそうです。となると、この犬を引き取りたいといってくれる人が現れる可能性はかなり低くなってしまいます。引き取り手がなければ殺処分となってしまいます。そこで保護団体は何とかこの犬を救おうと「ハチ」という名前をつけ様々な方法で飼主の募集を始めました。

募集をかけて半年…あるドックトレーナーの男性が飼主募集の記事を見かけました。
既にこの男性の家は犬を飼っていて、そして小学生の男の子、オーウェン君がいました。

オーウェン君は、全身の筋肉が常に硬直してしまう「シュヴァルツ・ヤンペル症候群」という先天性の難病でした。世界でも100例ほどしか報告されておらず、治療法も解明されていない病気です。

小学校にあがったオーウェン君は、自分自身と周囲の違いに悩んでいました。特にクラスの友達に「オーウェンはどうしていつも変な顔をしているの?」とからかわれることは何より嫌だったそうです。病気により顔の筋肉も硬直していて、目をあけるためには口を尖らせたり…と健常者から見ればおかしいかもしれませんが、オーウェン君はそれでも学校でがんばっていたのです。

人と違う自分を見られたくない…と他人の視線をさけるようにオーウェン君は外出することを嫌がるようになり、学校も休むようになり、どうせ病気はよくならないから…と薬を飲まなくなってしまいました。

男性は息子やすでに自宅にいる犬について考えながらも、「ハチ」に強く引きつけられていました。妻と相談し一度ハチに会いに行くことにしました。ハチは虐待がもとで人間不信に陥っており、本当に飼うことができるかどうか…とりあえず2週間預かって試してみることにしました。

ハチを自宅に迎えた日、ハチは警戒して家の中に入ろうとしなかったので、まずリードを離して家の中を自由に探索できるようにしたところ…ハチは全く知らない家なのに一目散にオーウェン君の部屋へ走っていきました。慌てて両親がオーウェン君の部屋へ行くと、オーウェン君の膝に頭をのせて甘えてくつろいでいるハチの姿がありました。

ハチはその日から片時もオーウェン君のそばを離れず寄り添っています。そして、そのハチの存在がオーウェン君の心に変化をもたらすことになります。ハチは足のために薬の混じった食事をとっています。飼主に虐待され、片足も失くし、それでも前向きに生きようとしているハチの姿を見てオーウェン君は再び薬を飲み始めました。

オーウェン君は失いかけていた優しい笑顔をハチと共に取り戻しつつありました。そんなある日、彼はオーウェン君に語りかけました。
「ハチは虐待をうけ、足を失うほどの怪我をして人間不信に陥るのは当然だ。そんなハチが自らオーウェン君と友達になろうとしてくれたのは、どれだけの勇気がいることだっただろう。」
ハチは勇気を出して自分を信じてくれている。自分はどうだろう…他人の視線を避け、勇気を持てず、後一歩を踏み出すことができない。

「ハチを連れて散歩にいきたい」
オーウェン君は自分の意思で外に出ることを決意しました。
オーウェン君ではなく、ハチに引きつけられてたくさんの人が集まりました。三本足のハチに子供たちが「かわいそう」と言うと、オーウェン君は自信をもってきっぱりとハチがどんなにすごい犬か話し出しました。

ある子供のお母さんがオーウェン君に言いました。
「そんな犬をしっかりと散歩させているあなたもすごいわよ。偉いわね。」

他人と関わりたくない、目も合わせられない…そんなオーウェン君は、ハチと共に人と関わる喜びを知ることができました。
それからオーウェン君は、ハチと様々なところへ一緒に行き、いろいろな人に大好きなハチの話しをすることが楽しみになりました。

そして、たくさんの人が集まるドックショーに出場するようになり、世界最大のドックショーである「クラフト」の犬と人間の友情に与えられる賞を見事受賞しました。

その後、オーウェン君は毎日学校へ通うようになり、ハチとの友情も変わらず続いています。

「ハチと一緒に世界中のいろんな所へ行ってみたい」
生きることに絶望感しかなかった少年が、生きることを諦めさせられそうになっていた犬と共に、未来を夢見ることができるようになったのです。過去のオーウェン君の姿はもうどこにもありません。

参考資料
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/140501_2.html
www.koinuno-heya.com

一本の電話がルールを変え、少女を救った

自分の気持ちや行動がうまく伝えられなかった時、悲しい気持ちになるのはまだ人というものを信じているからかもしれません。

おそらく一本の電話がなければ、少女は大人や学校を信じられなくなってしまっただろうと思います。

まだまだ朝は冷え込む時期です。今年度の学年末テストを控えて、少女はちょっと緊張しながら学校へ向かっていました。
私立の進学校に通っている少女は、まじめな性格もあり、ひとつひとつのテストや課題に一生懸命取り組んでいます。特に今回は1年で1番重要な試験でもあるので準備を怠りませんでした。

通学途中の道端で、少女の前に1人のおばあさんが倒れてうずくまっていました。病気か事故か…と思いながら少女が近づいていくと、おばあさんの傍らには大きな荷物が落ちていました。どうやらバランスを崩して荷物ごと倒れてしまったようです。余りの痛みに動けない様子のおばあさんを介抱しながら、携帯電話で救急車を呼び、一緒に待っていました。

その間、試験に遅刻してしまう可能性が高いため、学校へ連絡し現状と遅刻の報告を行いました。
学校へも連絡がついたため、おばあさんに付き添っていることにしました。

そして救急車が到着後、事情説明も兼ねて一緒に救急車へ乗り込むこととしました。
おばあさんは命に別状はなく、足を捻挫しているだけで済みました。おばあさんはお礼と学校へ遅刻してしまったことへの謝罪がありましたが、すっかり落ち着いたおばあさんを見て、少女は一安心して笑顔で病院を後にしました。

おばあさんが無事で本当に良かった…清々しい気持ちで学校へ到着すると、何と少女は学年末テストを受けることができないと学校側から言われてしまったのです。

「きちんと試験開始前に事情も説明して、遅刻の連絡を入れているのに、なぜ試験を受けることができないのですか?」

彼女は先生に向かって問いかけました。
先生は何をいまさら…というように理由を説明します。

・どんな理由があれ、自分が判断したのだから自分都合の遅刻に追試があるわけがない
・全く知らない、親族でもない人が怪我をしたからということで、あなたが試験を受けられないという理由にはならない
・このことを許可したら、世の中全ての人が怪我をしただけで追試をしなくてはいけなくなる

少女は頭が真っ白になりました。
ほめられることを期待していたわけではないけれども、倒れている人を助けることは学校ではおかしい行動だったのだろうか…。

しかし、少女はもう一度先生へ疑問をぶつけます。

「では、倒れているおばあさんを放っておけばよかったのでしょうか。」

・救急車を呼び、あなたは学校へ向かえばよかった
・救急へ同乗しなくてはいけないような状況、怪我だったのだろうか

どれだけ少女が訴えても、彼女が言っていることは理由にならないそうです。先生の理屈はわかります。でも目の前で倒れた人を放っておけない…少女は悔しさで泣きそうになりながら自分の気持ちを伝えますが、遂には諦めて何も言えなくなってしまいました。

その後、帰宅させられました。自分がどんなに説明しても先生を納得させることはできない…少女の気持ちは沈みます。

その日の午後、自宅へ学校から電話がかかってきて、今から特別に学年末テストの追試を行うのですぐに学校へ来るように、とのことでした。
急なことで何が何だかわからないまま、しかし大事なテストを受けることができる喜びに包まれながら学校へ向かいました。
特別に別室が設けられて、少女のために試験が行われました。
少女は何とか無事に学年末テストを受けることができ、準備の甲斐もありできも悪くなかったと思います。

そして、何より少女が嬉しかったのは…

おばあさんが学校へ連絡してくれたおかげで追試が行われることになったそうです。
実はおばあさんはこの学校出身で、学校生活や試験なども厳しいことは知っていた上で、少女に助けられたこと・人として素晴らしい行動をしてくれた少女を認めてあげてほしいこと・勉強やルールも大事だけれども、人生にはこのようなことが大事だと先生たちもわかっているであろうこと…何度も何度も電話口でお願いをしてくれたそうです。泣いてしまいそうになるほど嬉しくて、感謝しました。

自分のしたことは間違っていなかった!

今するべきことをしたはずだったのに、学校や先生の理屈では違っていたことに一時は打ちのめされていた少女は、自分の行動が間違っていなかったことが証明されたように思えました。

大人になっていく過程で、子供たちはルールを知り、守れるようになる練習をしています。
ただ、今ここにあるルールが本当に正しいのか…
もしかしたら子供たち自身がその経験で感じている矛盾の方が正しいのではないのか…
そして大人はその矛盾をバカにせず耳を傾ければもっといいルールができるのでは…

大人が信じてもらえるかどうかは、子供たちの言葉をしっかり受け止められるか…ではないでしょうか。

参考資料
http://cadot.jp/impression/5305.html/4

みんなの願いが叶った、友情の階段

「絆」…東日本大震災以後、復興への希望を込めてこの言葉がボランティア・支援活動に使われてきました。本当に困っている人を支援するため、手に手を取り合って明日を拓いていくにふさわしい言葉です。

とある小学校で、深い友情の「絆」で結ばれた子供たちがいました。

彼女は産まれて間もなく「脳室周囲白質軟化症」という脳性まひの一種にかかり、手足や首に力が入らず歩くことができませんでした。そして小学校へ入学する時、両親は障害を持っていることも考えつつも公立の小学校へ入れることとしました。普通学級と支援学級を往復しながら学校生活をスタートさせたのです。1学年15人ほどの小さな学校の中で、彼女は楽しそうに通っていると思えました。
実際、登校時に車いすが用意されていたり、移動の時に車いすを運んだりなど同級生たちも自然と彼女を助け、一緒にいることが普通になっていたのです。1・2年生が過ぎ、みんなが3年生になる頃、2階に教室が移る事になったため、彼女は授業を支援学級で受けることになり、ほとんどをそこで過ごすことになりました。それでも休み時間など2階から1階に友達が降りてきて楽しそうに遊んでいたのです。

そのころ、彼女が書いた絵がコンクールで入選し、学校の集会で感想をこめた作文を読むことになりました。

同級生、学校の先生、両親…「友達と遊ぶのが楽しいです」という彼女の作文を微笑ましく聞いていたのですが、彼女の作文を読む声が急に途絶えました。

「ひとりだとさびしいです」。
涙ながらに彼女は言いました。

「え?」というのが同級生たちの本音のようでした。むしろ彼女がみんなともっと一緒に遊んだり、活動したりしたいと思っているとは感じていなかったそうです。

当時、彼らの小学校では、学校近くの河原での川遊びがブームでした。学校側も教育の一環として川遊びを取り入れていたのです。もちろん、彼女も河原に一緒に行っていました。しかし、川へは3mほどの崖を、ロープを伝って降りなくてはなりません。彼女は崖の上からみんなを見守っています。休み時間や合同授業の時同様、みんなが自然に彼女の車いすを押していましたし、川からあがってはとれたものを見せていました。

小学校3年生、自分の身体に障害があることはわかっていても、本当はみんなと一緒に授業を受けたい・崖を降りて川で遊びたい、そう思って当然です。しかし、彼女はそれを表に出さず一人で孤独を募らせていたのです。

彼女の本心を知った同級生たちは、彼女の願いを叶えたいと先生も含めて相談をしました。手足に力が入らない彼女をおんぶして崖を降りることは大人でも難しいことでした。先生と同級生たちの姿を見て、校長先生はその想いを何とか実現させてあげたいと思いながら河原を歩いていると、崖のはしに川に降りられるような階段をつくれないか思いつきました。早速地域の土木振興局へ相談に行き、現状と生徒たちの想いを伝えることにしました。

同級生たちも自分たちができることを…と、ひとりひとり階段を設置してほしい理由と希望を書いた手紙を校長先生に託しました。

「彼女は我慢していますが、私たちも一緒に川に入りたいです」
「彼女は一度も川に入った事がありません。残り3年間で一回でもいいので入りたいです」

市との予算の兼ね合いもありますが、前向きに検討してもらえる返事をもらい、実際土木局の担当の人が川や崖の調査に入りました。
みんなもうすぐ階段ができると、そのために彼女のために何かできないか…夏休みを使ってある物を集め始めました。先生の許しをもらい、2学期の総合学習の時間を使い完成させました。約150個のペットボトルで作られた「どんどん行け ゆうきゴー」と名付けられた筏(いかだ)です。彼女がゆったり乗れるように背もたれ・肘かけがついているので、運動会の時なども活躍したのです。

しかし…10か月経っても、年度が変わっても工事は始まりません。工事担当の課長が異動になっていたのです。
みんなは5年生になっていました。手紙を書いて約2年、みんなの夢を託した「ゆうきゴー」はその出番を待ち続けています。

ある日、県から学校へ工事の着工をすると連絡が入りました。みんなはやっと筏をもって川へ行けると喜びました。
白紙となっていた工事が着工できることになったのは、子供たちからの夢を託した手紙でした。偶然後任の課長が発見し、予算の確保をして実現にこぎつけたのです。

いよいよ工事が始まりました。工事担当者は、川・河原・崖は自然そのままで、階段をつくる以前に道路もつくらないと通ることができないことに気づきました。ただ、そうすればこの工事は赤字になります。素直にやり直せば工事は一旦中断してしまいます。彼女たちの6年生の夏は間もなくやってくるのです。工事担当者は赤字覚悟で、自分も自分の子供たちもお世話になった小学校へ恩返しをすることを決意しました。

そして、いよいよ待ち焦がれた階段が完成しました。
「川へ入るのは初めてです。ワクワクします。」
そう挨拶をしてみんなで筏を持って川に入りました。
「川の水がこんなに冷たいとは知らなかった!」
彼女だけでなく同級生の願いが叶った瞬間です。

あの時、彼女が自分の気持ちを伝えてなかったらどうだったでしょう。
同級生たちは、彼女がいなかったらわからなかったことがたくさんあって、やってみないとわからない、みんなで感動することができた…と言っています。

「自分自身と友達の一生の宝物です」
彼女は笑顔でそう振り返る先には、友達をもつことの大切さを共に感じた仲間がいます。
そこには確かな「絆」があります。

参考資料
www.youtube.com/watch?v=CovmiUCL8Fs

感謝してもしきれない気持ちを書にこめて…

日本で有名な昔話である「鶴の恩返し」。子供のころに見たり・聞いたりした方も多いのではないでしょうか。
また、これをベースに舞台や映画・落語などにイメージをふくらませながら、現代においても親しまれ続けている昔話はそうそう多くはないと思います。

しかし、この「恩返し」は日本だけの話しではなく、お隣の中国でも実際にありました。国土も人口も日本とはくらべものにならないくらいの大きさの中国で、ある1人の男性の「恩返し」の話しが取り上げられました。またたく間に中国全土に広がり、感動と称賛を得た話です。

今から20年以上前に話はさかのぼります。中国は現在のように経済大国ではなく、経済を発展させるために努力をしている時期でした。当然、大都市以外の町や村は非常に貧しく食べていくのがやっとの人が大勢いました。
自分の村では食べていくことができずに、1人の青年がもう少し大きい町へ出稼ぎにでました。それでも200キロも離れた、決して栄えている都市ではない町です。出稼ぎにきたものの、なかなか職は見つけられず、そんな中わずかな所持金を盗まれてしまったのです。もう3日も飲まず食わずで、路上で力尽きようとしていた時、ある女性が青年に声をかけてくれました。女性は青年を家に連れ帰り、食事を与え、ゆっくり休めるように寝床を与え、青年の現状を見て夜遅くまで仕事を探してくれていました。貧しい自分の村、常に借金があり苦しい家、出稼ぎにきた自分に冷たい町、貧乏人から盗みを働く人…人を信じられなくなっていた青年には、信じられないようなことばかりがこの女性の家で起きました。体力を回復した青年は自分で再度働き口を見つけようとしましたが、やはりこの町も貧しかったのです。新たにさらに2000キロ離れた大都市に向かうことを決めました。出発の日、女性は青年に交通費とお弁当を渡してこう言いました…

「大切なのは誠実でいること、心のキレイな人でいなさい。きっと幸せになれるから。」

青年は女性のおかげで無事に大都市へ到着し、必死に職を探し、懸命に働きました。この頃は経済発展優先で労働環境は良くなかったといいます。賃金のカットはもちろん、踏み倒しなどもあったようです。それでもいつも女性の言葉を胸に、耐えて必死に働き続けました。その頃から時折女性に近況を伝える・尋ねる手紙を出し始めましたが、宛先が不明ですべて戻ってきてしまいました。

青年は女性に感謝することを忘れませんでした。時間を見つけながら女性を地道に捜索し続けていたのです。そして20年経ってようやく女性の居場所を探すことができました。結婚後、別の町で暮らしている女性の元に感謝を伝えに会いに行くことにしました。女性がいなければ自分は生きておらず、つらいことばかりだった人生に、人を信じることができる幸せを与えてくれたこと…感謝の気持ちがあふれていました。女性は20年前と変わらす貧しくも慎ましく、キレイに暮らしていました。青年は感謝の気持ちと共に、20年前に渡してくれたお金を返し、さらに100万元(日本円にすると約1500万円)の小切手も女性に渡しました。実は、青年は20年間懸命に働き、現在は3つの会社を経営する社長になっていたのです。女性が受け取らないので、青年は自分の感謝の気持ちだからと必死に説得しましたが…

「私はお金をもらうためにあなたを助けたんじゃないわ。人が人を助けることにお金はかからないわ。」

お金に換えられない恩を受けてお金で返そうとした自分…女性の誠実さに比べて恥ずかしい気持ちになった青年は、それでもこの20年間、女性の言葉を胸に頑張れたことの感謝を表したいと思い、それを伝える術を必死に考えました。

そして青年は「山如重恩(恩の重さは山の如し)」と書かれた書を女性に贈りました。どんなに感謝しても感謝しきれない20年分の気持ちを込めた書を女性は気持ちよく受け取ってくれました。青年は「素晴らしい出会いが自分の人生の支えになってくれています。」と語っていますが、女性は…

「自分のおかげで今の彼があるのではありません。ただ、わずかな手助けが人を変えることはあるかもしれません。」

その後も2人の交流は続き、現在では旅行へ一緒に行くなど家族ぐるみで付き合っているそうです。

参考資料:www.fujitv.co.jp/unb/contents/141204_2.html

武士道をつらぬいた「大空のサムライ」

武士道をつらぬいた「大空のサムライ」

戦地にあって、敵を見かけたら撃ちまくる
そんな光景を数多く見聞きしてきました。実際に、その場に自分がいたとしたら、どれほどの恐怖と緊張感に満ち満ちていることでしょう。人影を見、気配を感じただけでも、自分の死を身近に感じ、敵、味方もわからずにただ、生きるために撃ち出てしまうのが本能というものではないでしょうか。

しかし、「大空のサムライ」と言われる旧日本海軍中尉 坂井三郎は違ったのです。

坂井は「撃墜王」と呼ばれるにふさわしい人物でした。零戦での出動回数は200回を超え、64機の敵機を撃墜した記録を持つほどのスゴ腕の持ち主です。

1942年、太平洋戦争がはじまってすぐの事でした。敵基地を侵攻するために出動していた坂井は、オランダ軍の1機の大型輸送機を見つけました。

日本軍からは「たとえ、民間機といえども、軍の重要人物が載っているかもしれない。敵機が飛行していたならば、捕獲、またはすべて残らず撃墜せよ」との命令がでていました。

坂井はその大型輸送機に近づき、敵軍の重要人物が中にいないか窓からのぞき込みました、すると、太陽の光に照らされて彼の目に飛び込んできたのは、彼の機体におびえ震える女性や子供の姿でした。

彼はその姿を確かめると、「逃がそう」と決断しました。当時の軍の命令は絶対死守すべきものだったことはご存知の通りです。それにそむくと言うことは、決して許されない時代。

しかし、彼は輸送機に乗っていた女性や子供に手を振ると戦機をひるがえして、空の中へと消えて行きました。彼は、立派な日本海軍であり、武士道を心に秘めたサムライだったのです。

基地へ戻り彼は、飛行中に敵と思われるものには出会えなかったと軍へ報告しました。そして、ずっと彼の心の中にとどめ隠しもっていたのです。

しかし、戦後、ある一人のオランダの看護婦が、坂井の著書を偶然目にし、零戦に描かれたマークから坂井があの時、見逃してくれたパイロットだと知りました。彼女は坂井が見逃したあの輸送機に乗っていたひとりだったのです。

看護婦は国際赤十字を通じて坂井を探しあて、戦後50年たち、彼女は坂井に会うことができました。坂井の手を握りしめ、あの時輸送機に乗り合わせたみんなの感謝の気持ちを涙を流しながら伝えたそうです。

参考文献;http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_7_v.html

徳川家康の一番の宝は?

その忠誠ぶりはまるで犬のようだ!といわれた家臣たちがいます。
それは、徳川家康が慈しみ育て上げた三河武士団です。

豊臣秀吉が関白だった頃、諸大名を集めてみずからが持っている豪華絢爛な名宝の数々を自慢しました。そして、その時に家康に対して、どのような宝を持っているかと尋ねました。

家康は答えました。
「私は田舎の生まれですので、珍品といわれるようなものは持っておりません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。私にとって1番の宝は彼らだと言えるでしょう」

そう、家康の1番の自慢の宝とは、家康のためなら命も惜しまない三河武士団だったのです。勇猛果敢で義理がたい、豊臣秀吉にも、ぜひ欲しいものだと言わせしめたすばらしい臣下たち。

しかし、それはもともとのお家柄や土地柄かと思いきや、家康の父や祖父の時代には臣下に裏切られたことも多々あったとか。やはり、それほどまでに忠臣となったのは家康という人物がいたからだったようです。

一向一揆で家康を裏切り寺側についいた夏目次郎左衛門吉信でしたが、四方を家康軍にとり囲まれた時に、家康に命を救われました。その後、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗し、家康が命を落としそうになった際、身代わりになって討ち死んだのは、かつて命を救ってもらった夏目次郎左衛門吉信でした。

武田信玄は家臣から告げられます。
「今の日本に徳川家康と上杉謙信に勝る大将はあるまいと存じます。そのわけは今度の戦で討ち死にした三河軍をみると下郎人夫まで加わっておりました。しかも武田勢に向かって倒れた者はうつ伏せし、徳川勢の方へ倒れた者は仰向けになって、最後の瞬間まで忠義を尽くそうとしたわけです。」
誰ひとり、敵に背を向け逃げ出すものはいなかったことを意味します。

幼少のころに人質となり、幾多の苦難や敗北を経験しながらも乗り越えてきた家康。
井伊直政が大久保忠世の陣中に呼ばれ、三河の武士らが食している芋汁をふるまわれた時のことです。
汁にはぬか味噌のほか味がなく、芋の他、はっぱ、茎などが一緒に煮込んであり、あまりのまずさに井伊直政が苦言を吐くと
「この味は確かにまずい。しかし、我らの配下にはこんなものすら食えない者もいる。なのに、命を賭けて闘ってくれる。そして農民は、芋を作れども主君に差しだし、自分たちの口には入ることもないのだ。
家康様の元で立身するからには労苦を噛みしめ周りを思う心意気を持て。」
と大久保忠世はおだやかに井伊直政を諭したという話があります。

けして驕ることなく、労苦を共にし、臣下を思いやる人柄が、三河武士の結束を固めたのでしょう。

家康は命の火が消えゆく時に、忠義心の強い三河武士たちが殉死しないように辞世の句を残しました。
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
いつでも、どこでも、臣下を思いやる優しい気持が伝わってきませんか?

参考http://www.icgc.or.jp/guarantee/index.phpmode=kiji&key=126