どんな仕事もクリエイティブ!~あるレジ打ちスタッフの気づき~

自分がやりたかったことと違う!

そう言って仕事を変えてしまう人はいるかもしれません。
そもそも、自分のやりたいことが社会にそのまま用意されている…ということは幻想ではないでしょうか?

現在たくさんの方が従事している「レジスタッフ」ですが、その仕事を単純作業と捉えるか、たくさんの創造がある仕事と考えるか…これはある女性のお話しです。

彼女は思い返せば何をやっても続けることが苦手でした。
上京して大学に入っても、何かが違う…と嫌になってサークルを転々とするようなところがあったのです。

いよいよ就職の時期になり、彼女なりに吟味してメーカー系企業に勤めることとなりましたが、3カ月で上司と衝突して退職。
「つまらない」「私がやることではない」「私がやりたかったことではない」とその後も就職先を転々とすることとなります。
当然、彼女の職務経歴書は短期での就職と離職がたくさん記載されることとなり、正社員での採用が思うように決まらなくなっていくのでした。

けれども、生活のためにも働かなくてはいけないと感じた彼女は、派遣の登録をすることにしたのですが…
派遣先の社員の人たちとトラブルを次々と起こし辞めることになる…派遣社員としても十分に勤めることができなかったのです。

会社から次に紹介されたのはスーパーの「レジ打ちスタッフ」でした。
この当時は、現在のように商品をかざせば代金が入力されるシステムはまだなく、ひとつずつ手打ちしなくてはなりません。
技能としてはタイピングの技術も必要です。

勤め始めて1週間もしないうちに、彼女は「こんな単純作業がやりたいわけじゃない!」と思い始めていました。
ちょうど、娘の気持ちがわかっているかのように母親から連絡があり、「無理をしないで帰っておいで」と言ってくれたのです。

せっかく上京したのだから…と思っていたけれど、ここまでうまくいかない状況が続くと、さすがに彼女も母親の優しさに頼ろうという気持ちになりました。
そして辞表を書き、部屋の整理を始めると、一冊のノートを見つけたのです。それは彼女の小さい頃の日記でした。日記にはしっかりと「将来はピアニストになりたい」と書かれていました。

思い返せば…自分が唯一続けられたもの、それはピアノの練習だけだった…それでも結局やめてしまって、あの頃から何も変わってなくて、嫌だから逃げ出そうとし続けているんだ…
そして彼女は泣きながら母親に「もう少しがんばる」と告げたのでした。

「後少しだけ、2・3日でもいいからがんばってみよう」と心に決め、翌日からスーパーに出勤し始めました。ピアノのことを思い出したからでしょうか、「レジ」ではなく、ピアノを弾くような気持ちでレジを打ったらどうだろう、キーボードの位置だけしっかり覚えれば打つも弾くもそんなに変わらない、自分流のレジ打ちをすればいいんじゃないか!と思っている自分がいました。
レジ打ちを彼女流に極めてみることにしたのです。

レジから顔をあげて打てるようになると様々なお客様の顔が目に入りました。
今まで気にもしていなかったお客様の様子が目に見えるようになったのです。

いつも特売日にやってくるおばあさんが、珍しく立派なタイをかごに入れてレジにやってきました。
彼女は不思議に思って、思わずおばあさんに話しかけたのです。
「今日は何かいいことありましたか?」
「孫が水泳で賞をとったから、お祝い。」
「おめでとうございます。」
そんなことをきっかけに、他のお客様とも短いながらもやりとりをするようになっていきました。

ある特売日、本当に忙しくて彼女は自分の仕事に集中していました。そんな中、店長が店内放送でお客様に呼びかけています。
「本日は込み合いまして誠に申し訳ありません。どうぞあいているレジにお回りください。」
スタッフが増員された…と思いながら必死にレジ打ちをしていると、再度同じ内容のアナウンスがありました。また同じアナウンス…
彼女はおかしいなと思い周りを見てみると、何とお客様は彼女のレジにしか並んでいなかったのです。

店長に向かってあるお客様が
「ここへ買い物だけにきてるんじゃなくて、彼女とおしゃべりもしたいんだよ。だからこのレジじゃないと嫌なんだ。」
「そうそう、特売なんてどのスーパーでもやってるけど、彼女はこのスーパーにしかいないから、このレジに並ばせて」

彼女が泣き崩れたのは言うまでもありません。
「つまらない」「だれがやってもおなじ」仕事と見えても、そこには働く人それぞれの「創造性」が必ずあるはずです。そして、それを受け取る人が必ず存在していることも事実なのです。
だからどんな仕事も素晴らしい!

あなたのクリエイティブが誰かに伝わりますように…。

参考資料
www.forestpub.co.jp/namida/suisen.html
manatakebooks.seesaa.net/article/207091709.html

人生を支えてくれる150通のラブレターと心の宝物

宮崎県で小児科医として100歳を目前にしても活躍されている貴島テル子さん。地元ではみんなの優しいお母さんとして多くの方から愛されています。おばあちゃん、お母さん、お孫さん…と親子で通われている方も多いそうです。

そんな貴島さんですが、ご自身にはお子さんがいらっしゃいません。その分、多くの子供の成長をみていこうと思い小児科医を選びました。
医師になろうと決めたのは生涯の伴侶であるご主人を戦争で亡くされてから、33歳で医師となりました。その後、50代で開業されて現在に至ります。普段の穏やかな笑顔からは想像はつきませんが、最愛のご主人が亡くなり、人生を絶望していました。

テル子さんの友人の兄であった政明さんは、海軍のパイロットをしていました。お父さんが外交官であり、海外生活を経験しているテル子さんは、はやくから自立した女性になりたいとの希望を持っていました。そして、この時代では珍しく政明さんはそんなテル子さんの希望を応援してくれていました。
二人は心を通わせるようになり、海外生活などで離れることがあっても気持ちがかわることはありませんでした。そのまま自然な流れで結婚の約束をしていたのですが、長引く日中戦争や第二次世界大戦が始まり、外交官であるお父さんは今後も戦争が激しく厳しくなると感じていたため、海軍の軍人である政明さんとの結婚を反対しました。それでも二人の気持ちはゆるぎないものでした。そしてとうとう昭和16年に結婚しました。

新婚生活…と言っても、戦争の最中です。政明さんは数日で隊に戻り、休暇と言ってもまたすぐに戻っていくという様子で新居を構える余裕もなくテル子さんは政明さんの実家で過ごしていました。この頃政明さんとテル子さんが交わした手紙は二人の愛があふれていました。

「本当の意味での清純な愛という言葉を、ぼくはあなたに心から贈ります」

昭和16年12月に真珠湾攻撃から太平洋戦争がはじまります。
そしてこの後、政明さんからの手紙は
「軍人として立派に死ねるように願ってほしい」
というような死を覚悟した内容ばかりになっていきます。手紙の検閲があったとしても、今までとは全く違う戦争や死についてばかりの内容…戦争が政明さんを変えてしまったのではないだろうか…テル子さんは不安な気持ちになっていきました。
そのうち、いくら手紙を出しても返事が全くないままの状況が続きます。

開戦の翌年、テル子さんに小包が届きます。今まで政明さんが出せなかった手紙と戦死通知でした。

結婚後1年足らず、共に過ごせたのは数十日…。最愛の人を亡くしたテル子さんの気持ちは想像を絶するものがあったと思います。
日々泣き暮らし、絶望の淵にあったテル子さんを救ってくれたのは、やはりご主人からの愛のあふれる150通もの手紙でした。
戦死後に送られてきた手紙の多くは軍人としての死の覚悟についてばかりでしたが、その中にはテル子さんに宛てた遺書がありました。

「最愛のテル子へ 余亡きあとしかるべく身を処されよ 良縁あれば遠慮するなかれ テル子の将来の幸福を祈りてやまず」

自分のことを最後まで心配してくれていた政明さん。テル子さんは政明さんと語り合った夢、そして応援してくれていた夢を思い出したのです。政明さんの想いに報いるためにも自立した女性を目指すことを心に決めました。

政明さんのお父さんは開業医であったため、政明さんの代わりに医師になるべくテル子さんは猛勉強をして28歳にして女子医専に合格し、33歳で医師となることができました。そして貴島の家に戻り、54歳で開業をして地元に根付いた医療を小児科医として行っています。現在でもテル子さんは政明さんと同じ「貴島」姓を守っています。

テル子さんは戦後、政明さんの戦友が主催する戦死者慰霊祭に度々参加していました。そこで政明さんと同じ部隊に所属していた男性と出会い、政明さんについて詳しく聞くことができました。政明さんはテル子さんが送ったテル子人形を肌身離さず持っていたそうです。もちろん最後の出撃の時も…。きっと最期は最愛の人が送ってくれた人形と共に逝ったに違いありません。

政明さんは戦争で人が変わってしまったのではなく、それまで以上にテル子さんを愛してくれていたのです。テル子さんのわずかな不安は取り除かれました。

今でも変わらずご主人を愛しているというテル子さん、心に宝物が持っていればきっと自分を支えてくれる…と伝えてくれています。もちろん政明さんからの手紙は宝物だけれども、心に宿る宝物はテル子さんを想いながら手紙を書いている政明さんの姿かもしれません。

参考資料
http://femininse.me/senses/45/
75年目のラブレター

25年前に自分を捨てた父との衝撃的な出会いと奇跡

「父に捨てられた」
悲しい気持ちで小さな胸を押しつぶされそうになったのは、ダイアナ キム(Diana Kim)さんが5歳の時のことでした。
写真スタジオを営んでいたお父さんはダイアナさんが5歳の時に母と離婚し、家から出ていってしまいました。それからは消息が絶たれ、父親とは一切音信不通の状態。
祖母からのちに、「父は重度の精神疾患にみまわれ、苦しみ、家族のもとから姿を消したのだ」とダイアナさんは聞かされました。

父母が離婚してからの人生は、地を這うようなドン底の日々が続きます。手をひかれ、最初に預けられたのは友人の家。住む所もありませんから、親戚や友人の家に寝泊まりさせてもらったり、どこにも泊まれないときは公園で寝たり、車の中で生活する事もありました。

両親の離婚によって底辺の暮らしを味わってきたこと、そして過酷な生活環境の中で悩み、苦労して育ってきたダイアナは、ホームレスの人々の想いが痛いほどわかります。

実は、ハワイのホームレス人口は現在では一万人を超えたともいわれています。もともとハワイ在住の人だけでなく、気候が良いためアメリカ本土からホームレスになるためにハワイに来る人もいるほど。

彼らが抱えているのは経済的な問題だけではありません。陥ってしまった境遇への心の葛藤なども深刻です。そんなホームレスの立場が分かるのはダイアナだからこそ。

ホームレスの人たちを少しでも助けたい。
彼女の熱い想いが行動へとつながったのは2003年。彼女が大学1年生の時でした。ホームレスの人たちを被写体にした写真プロジェクトをスタートさせます。

かつてカメラマンだった父親の影響でしょうか。ダイアナさんも撮影に夢中になりました。

彼女がはじめたプロジェクト名は「The Homeless Paradise」。ホームレスの人々に焦点を当て、彼らの姿や生活を写真で赤裸々に語り、広く知らしめ、義援金を募り、ホームレスを保護できるようにすることが目的です。

プロジェクトをはじめて10年がたったある日の事でした。
交差点の角にたたずむ一人のやせこけたホームレスにカメラを向けたときに、ダイアナに衝撃が走ります。「あれは・・・」、そう、25年前に生き別れた父の姿だったのです。

おそるおそる近づくと、彼は誰もいない傍らに向かって、居るはずのない誰かと口論をしていました。
声をかけますが、まったく気づく気配がありません。

「娘であることを気づいてほしい。」そう思って父親の前に立った時、ホームレスの女性が来て「彼はいつもそこに立ってるのよ、邪魔するんじゃないよ」といわれます。ダイアナさんは彼女に対して「I have to try(やらなきゃいけないのよ」と言い返しました。彼は自分の父親なのだと世界中の人々に叫びたい気持ちでいっぱいでした。

幼い頃、大好きだったキャンディーを買ってくれたお父さん。まさか、父親と再会するなんて!
しかし、25年を経て巡り合えた父親は、あばら骨が浮き上がり、顔も体も痩せこけ、重度の統合失調症を患っていたのです。

ダイアナさんは、父親を人間らしい生活へ導こうと、1年半にわたりずっと彼に寄り添い、多くの時間を共に過ごしました。しかし、父親は彼女の申し出を受け入れず、薬も治療もすべてを拒否。

このままでは父は死んでしまう。
そんなある日、1本の電話がダイアナのもとへ入りました。父親が心臓発作で倒れたことを、ホームレス仲間がダイアナに知らせ、助けを求めてくれたのです。
すぐに父親を病院へ運び、治療を受けさせた事がきっかけとなり、父親は気力体力共に回復。更生プログラムによって仕事を得られるようにまでなりました。

大きな苦労を背負って生きてきた人生。ホームレスの人たちに寄り添い、役に立ちたいと行動してきた事、「人生そのものが贈り物なのです」
「私たちが今持っている全ての物に対して感謝の気持ちでいっぱいです。」
そう語るダイアナさんの姿は明るい光に満ち満ちていました。

参考資料
http://spotlight-media.jp/article/180283081876115750

冒険記~音楽という目に見えない風景を通じて~

「人生は冒険だ」…昔から伝わる名言です。私たち人間は、生まれた時から新しいことにチャレンジし、冒険を繰り返して大人になっていきます。ただ、その「冒険」を自分自身の障害によって諦めている人たちがいるのも事実です。

視覚障害を抱えている熊本盲学校の生徒たちもその中の一人だったかもしれません。その中で学校は、助け合うこと・仲間をつくることなどの指導の一環としてアンサンブル部を創設します。そこへボランティアの指導員としてプロの打楽器奏者である冨田さんが招かれました。

アンサンブルとは…2人以上が合奏、合唱することです。熊本盲学校では自由な楽器の組み合わせでアンサンブルへ取り組むことになりました。冨田さんは週に1回、学校へ通って指導をしていくことになりました。4か月後には特別コンサートを行うことも決定していました。しかし、部員たちは全盲や弱視で楽譜をよむことがきません。冨田さんは、それぞれのパートにわけて音源を録音し、それを聞きながら楽譜を覚えるようにしました。
さらに口頭での指示は目の見えない彼らにはわかりづらいものがあります。「バチは下から3分の1を持つ」は実際にどこを持つのか、鍵盤の位置はどうなっているのか、1人ずつ手に取って指導をしていくことになりました。

冨田さんは指導を引き受けてから心に決めていたことがあります。
「自分自身は健常者で視覚障害のある部員たちの本当の苦しみはわからない、だからこそ普段通りに指導をしよう。障害があるからといって優しく指導するのは彼らに失礼だ」

当然、指導はいつも通り厳しいものとなりました。週1回の指導後は必ず取り組むべき課題が設定され、部員たちは授業以外でも必死に課題をクリアするべく取り組みました。
ある部員は音楽経験があり、みんなが課題に必死に取り組んでいても自分はできるから…と先に帰宅することもありました。冨田さんが参加しての合同練習の時、練習の成果がみえつつもどうしても音が合いません。出来るはずの部員が足を引っ張っていたのです。課題は技術を磨くものではありますが、アンサンブルには協調性が不可欠なのです。その生徒はアンサンブルに参加することが全くできませんでした。その部員は自分に足りなかったものを自覚すると共に、他の部員たちもアンサンブルは気持ちをひとつにして演奏することが大事であることを学んだのでした。

アンサンブルは指揮者がいません。健常者であればアイコンタクトで演奏を始めることができますが、彼らにはそれができないのです。またバチや声掛けなどは減点されてしまうのでこれもできません。冨田さんは彼らが健常者よりも聴覚が発達していることを利用して息づかいで聞き分けてタイミングを合わせることにしました。視覚障害の壁をまたひとつ乗り越えることができました。

創部4か月後のコンサートを部員たちは無事に終えることができ、ホッとしたのもつかの間、冨田さんは部員たちに言いました。
「全日本アンサンブルコンテストに出場する」
これはアンサンブルを行う全国の精鋭たちが集まる大会です。もちろん、障害者の出場など聞いたこともありません。この目標へ向けてさらに練習は厳しさを増したのですが、自分たちが障害者であることや想像することもできない高い目標、来年卒業する自分たちの将来…不安を覚えた部員2人が退部を申し出ました。冨田さんは彼らの気持ちもわかりつつ、1通の手紙を彼らに読みました。コンサートに来てくれたある少女からの感謝の手紙でした。そこには部員たちの努力へ思いをはせつつ、自分がどれだけ演奏に感動をしたかが感謝の言葉とともにつづられていました。
障害者だからと悲観的になっていた自分たちが、誰かに認められ必要とされていること、今確かにここには自分たちの居場所がある…様々な迷いや不安は消え、熊本支部予選に向かいました。熊本盲学校は見事金賞に輝き、全国大会へすすむこととなりました。

創部以来のリーダーが病に倒れました。冨田さんは病を抱えた部員に無理をさせたことで自分を責めたようです。彼の母親にも謝罪をしました。リーダー不在でアンサンブルが成立するか、全国大会へ出場するのか諦めかけていた冨田さんに、彼女はしっかりと伝えました。
「どうか続けさせてやってほしい。」
息子が明るくなり、イキイキと演奏をしている姿をみて、この流れを断ち切ってしまうのは息子自身が死ぬことよりも辛いことだと母親として感じていたのでしょう。

全国大会へ向けてさらに厳しく練習を積む中、部員たちは冨田さんの誕生日にメッセージカードを渡しています。
「プレゼントは全国大会の金賞です。」

全国から集う精鋭たちの中で、視覚障害者であることなど忘れてしまうほどの見事な演奏を披露し、熊本盲学校は初出場ながら金賞に輝きました。

部員達はもちろん喜びましたが、それ以上に得たものがあったと言います。
「金賞はその場限りだが、友情は一生残る」
「信頼関係を築けたことを誇らしく思う」
一足先に卒業をしたリーダーも同じように感じています。
「今でも仲間として繋がっている」

冨田さんは自身の著書、「息を聴け/熊本盲学校アンサンブルの挑戦」出版前にこのように言っています。
「これは健常者と障害者の美談やサクセスストーリーではありません。音楽という目に見えない風景を通じて、人としての生き方や考え方といった漠然としたものを、彼らと必死に探ってきた『冒険記』であると私は感じています。」

冒険の先にどのような光景が広がっているのか…きっと再び新たなスタートをきる勇気が備わっているに違いないでしょう。

参考資料
www.bandpower.net/soundpark/essay/01_relay/12_tomita.htm
www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-425.html

ガンと闘う9歳の少年、母にあてた励しの言葉に涙

「おかあさん、もしナオが死んでも暗くなっちゃダメだよ。明るく元気に生きなきゃダメだよ。わかった?」
そんな言葉を、病と闘っている我が子から言われたら、心臓をギュッとしめつけられてしまいますよね。

「代われるものなら代わってあげたい」
もがき苦しむ我が子の姿を目の当たりにしながら、その姿を見守り、願うことしかできない親の辛さは、地獄の業火に焼かれるのにまさるものではないでしょうか。

『がんばれば幸せになれるよ』
小児がんと闘ったわが子の姿を母が記したこの本には、9歳の少年が母にあてた励ましの言葉がいっぱいつまっています。

山崎直也くんは、5歳の時に病魔に襲われました
「ユーイング肉腫」
10万人に1人といわれる子どもに多く発生する骨のがんです。
大変強い疼痛が特徴で、同じ悪性の骨腫瘍である骨肉腫よりも強いことがしばしば。体中に転移しやすく強い抗がん剤で治療しなければならない難病です。

子どもにはあまりにも過酷な治療。直也くんは痛みに耐え、必死に病と闘っていました。しかし、2001年6月、がんは全身に転移し、もはやなすすべもない状態になってしまいます。

目は開き身体はよじれ、直也くんは悲鳴とも絶叫ともつかない声で
「苦しい!息ができない!」と訴えます。
もうダメかもしれない。お母さんは我を失い、泣き叫びパニックに陥りました。
叫びながら病院中をかけめぐり、主治医を探しますが研修医しか見つかりません。

病状がおさまらない我が子を目にし、半狂乱になり周りに怒りをぶつけてしまいます。
「何もできないんだったら、あっちへ行ってよ!」

しばらくして、処置が効き始め、直也くんの呼吸が落ち着きました。
ほっとし、たちつくすお母さんが医師から告げられたのは
「今は落ち着いていますが、おそらくあと半日ぐらいだと思います。」との残酷な告知。

病室に戻り、平静を装うと必死のお母さん。その気持ちをいち早く察知したのは直也くんでした。

「おかあさん、さっきナオがあのまま苦しんで死んだら、おかしくなっていたでしょ。
だからナオ、がんばったんだよ。
それでも苦しかったけど。おかあさんがナオのためにしてくれたこと、ナオはちゃんとわかっていたよ。
『先生早く!』って叫んでいたよね。でも安心して。ナオはああいう死に方はしないから。
ナオはおじいさんになるまで生きたいんだ。おじいさんになるまで生きるんだ。
がんばれば、最後は必ず幸せになれるんだ。苦しいことがあったけど、最後は必ずだいじょうぶ」
そう、優しく母をさとすように語りかけたのです。

半日の命といわれた直也くん。しかし、彼は渾身の力を振り絞って頑張ります。

『夜10時過ぎ、直也は突然落ち着かない様子で、体を前に泳がせるようなしぐさをしました。
「前へ行くんだ。前へ進むんだ。みんなで前に行こう!」
 びっくりするほど大きな力強い声です。そして、まるで、迫り来る死と闘っているかのように固く歯を食いしばっています。ギーギーという歯ぎしりの音が聞こえるほどです。やせ衰えて、体を動かす元気もなくなっていた直也のどこにこれだけの力があったのかと驚くほど、力強く体を前進させます。』

また、直也くんは周りの人たちにも優しく語りかけていました。

『ある日、私が病院に行くと、主任看護婦さんが、「おかあさん、私、今日、ナオちゃんには感動したというか、本当にすごいなと思ったんだけど」と駆け寄ってきました。直也は、
「この痛みを主任さんにもわかってもらいたいな。わかったら、またナオに返してくれればいいから」
 といったそうです。「えっ、痛みをまたナオちゃんに返していいの?」とびっくりして聞くと、
「いいよ」
 と答えたそうです。
「代われるものなら代わってあげたい」。よく私もそういっていました。でも直也はそのたびに力を込めて「ダメだよ」とかぶりを振り、
「ナオでいいんだよ。ナオじゃなきゃ耐えられない。おかあさんじゃ無理だよ」
 きっぱりとそういうのです。』

どちらが大人かわからないくらいのあたたかい気遣いと深い愛を感じます。

死の告知をうわまわり、2週間後、直也くんは静かに息をひきとったそうです。

お母さんは泣きませんでした。それは、直也くんの命は永遠に生き続けている、肉体が滅びても直也くんは生きていると固く信じていたからです。
「身は滅びても命は永遠だよ。」
と直也くんはお母さんに話していたのですね。

「最後まで生きることをあきらめなかった直也の姿は、
私たち家族に、そしてたくさんの人たちに、勇気と励ましを与えてくれました。」
とお母さんは語ってくれました。
直也君と共に信じ、闘いきったお母さん、そして、最後まで頑張りぬいた直也君の心あたたまる言葉は、これからも全ての人へのエールとなるでしょう。

参考:『がんばれば、幸せになれるよ―小児がんと闘った9歳の息子が遺した言葉 』(小学館文庫)

感謝してもしきれない気持ちを書にこめて…

日本で有名な昔話である「鶴の恩返し」。子供のころに見たり・聞いたりした方も多いのではないでしょうか。
また、これをベースに舞台や映画・落語などにイメージをふくらませながら、現代においても親しまれ続けている昔話はそうそう多くはないと思います。

しかし、この「恩返し」は日本だけの話しではなく、お隣の中国でも実際にありました。国土も人口も日本とはくらべものにならないくらいの大きさの中国で、ある1人の男性の「恩返し」の話しが取り上げられました。またたく間に中国全土に広がり、感動と称賛を得た話です。

今から20年以上前に話はさかのぼります。中国は現在のように経済大国ではなく、経済を発展させるために努力をしている時期でした。当然、大都市以外の町や村は非常に貧しく食べていくのがやっとの人が大勢いました。
自分の村では食べていくことができずに、1人の青年がもう少し大きい町へ出稼ぎにでました。それでも200キロも離れた、決して栄えている都市ではない町です。出稼ぎにきたものの、なかなか職は見つけられず、そんな中わずかな所持金を盗まれてしまったのです。もう3日も飲まず食わずで、路上で力尽きようとしていた時、ある女性が青年に声をかけてくれました。女性は青年を家に連れ帰り、食事を与え、ゆっくり休めるように寝床を与え、青年の現状を見て夜遅くまで仕事を探してくれていました。貧しい自分の村、常に借金があり苦しい家、出稼ぎにきた自分に冷たい町、貧乏人から盗みを働く人…人を信じられなくなっていた青年には、信じられないようなことばかりがこの女性の家で起きました。体力を回復した青年は自分で再度働き口を見つけようとしましたが、やはりこの町も貧しかったのです。新たにさらに2000キロ離れた大都市に向かうことを決めました。出発の日、女性は青年に交通費とお弁当を渡してこう言いました…

「大切なのは誠実でいること、心のキレイな人でいなさい。きっと幸せになれるから。」

青年は女性のおかげで無事に大都市へ到着し、必死に職を探し、懸命に働きました。この頃は経済発展優先で労働環境は良くなかったといいます。賃金のカットはもちろん、踏み倒しなどもあったようです。それでもいつも女性の言葉を胸に、耐えて必死に働き続けました。その頃から時折女性に近況を伝える・尋ねる手紙を出し始めましたが、宛先が不明ですべて戻ってきてしまいました。

青年は女性に感謝することを忘れませんでした。時間を見つけながら女性を地道に捜索し続けていたのです。そして20年経ってようやく女性の居場所を探すことができました。結婚後、別の町で暮らしている女性の元に感謝を伝えに会いに行くことにしました。女性がいなければ自分は生きておらず、つらいことばかりだった人生に、人を信じることができる幸せを与えてくれたこと…感謝の気持ちがあふれていました。女性は20年前と変わらす貧しくも慎ましく、キレイに暮らしていました。青年は感謝の気持ちと共に、20年前に渡してくれたお金を返し、さらに100万元(日本円にすると約1500万円)の小切手も女性に渡しました。実は、青年は20年間懸命に働き、現在は3つの会社を経営する社長になっていたのです。女性が受け取らないので、青年は自分の感謝の気持ちだからと必死に説得しましたが…

「私はお金をもらうためにあなたを助けたんじゃないわ。人が人を助けることにお金はかからないわ。」

お金に換えられない恩を受けてお金で返そうとした自分…女性の誠実さに比べて恥ずかしい気持ちになった青年は、それでもこの20年間、女性の言葉を胸に頑張れたことの感謝を表したいと思い、それを伝える術を必死に考えました。

そして青年は「山如重恩(恩の重さは山の如し)」と書かれた書を女性に贈りました。どんなに感謝しても感謝しきれない20年分の気持ちを込めた書を女性は気持ちよく受け取ってくれました。青年は「素晴らしい出会いが自分の人生の支えになってくれています。」と語っていますが、女性は…

「自分のおかげで今の彼があるのではありません。ただ、わずかな手助けが人を変えることはあるかもしれません。」

その後も2人の交流は続き、現在では旅行へ一緒に行くなど家族ぐるみで付き合っているそうです。

参考資料:www.fujitv.co.jp/unb/contents/141204_2.html

米国戦艦ミズーリで行われた、日本兵の水葬

「ザマアミロ!」
戦闘中、敵兵の遺体を目にしたら?
きっと冷たい視線を注ぎ、そうつぶやくことでしょう。
敵兵を手厚く葬る? そんなこと、できるでしょうか

ハワイの真珠湾には、太平洋戦争で戦火をくぐりぬけてきた米国の戦艦ミズーリが係留されています。その、ミズーリの右舷艦尾に残っている「カミカゼ・アタック・サイト」(特攻機の攻撃場所)と称する「凹み」。カミカゼ、そうです、日本軍の特攻機が戦艦に体当たりしてつけた傷跡です。

太平洋戦争も末期、昭和20年4月11日午後2時43分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、一機の零式戦闘機が戦艦ミズーリの右舷艦尾に突入しました。

艦上でもれた燃料に火がつき、燃え出した戦闘機を沈火すると、そこには若き日本兵の遺体が残りました。

自分の命を投げ出して任務を全うした勇気ある攻撃に心を打たれたウィリアム・キャラハン艦長は、海軍式の水葬で弔おうと提案します。もちろん、反対の声はありました。「敵兵にそんなことをする必要はない!」 彼らにとっては仲間を殺したかもしれない敵兵です。

しかし、艦長は「敵兵でも死んだら敵ではない。国のために命をささげた勇士である。これは艦長の意志である。丁重に葬ってやりたい」と決意を表明し、星条旗に日の丸を描かせて遺体を包み、翌12日、礼砲5発、全員敬礼をして水葬をとり行ったのです。

この日本兵の身元は長年不明でしたが、「戦艦ミズーリ記念協会」のボランティアの方々の調査で、石野節雄・二等飛行兵曹(当時19歳)であることが判明しました。

戦艦ミズーリで葬送された日本人は石野二等飛行兵曹ただひとり。それは、撃墜されず、また爆発することなく、遺体がきちんとあったからです。

石野二等飛行兵曹の機体は弾薬が装備されていないものでした。
特攻隊の援護か戦果確認任務だったのでしょう。本来ならば、彼は特攻せず帰還して良かったのかもしれません。しかし、仲間が命がけで散っていく姿を目にし、彼は自らの命と機体を武器に、航行中のミズーリを追いかける形で突入したのです。

ウィリアム・キャラハン艦長は兄を日本軍との戦闘で失っています。身内を亡くしたにもかかわらず、日本軍の特攻兵を手厚く弔い、最大限の敬意を表したのは、人を憎まず、戦争という国を守るための戦いに命をささげ挑んだ若き日本兵の精神に感銘をうけたからかもしれません。

水葬から年月がすぎ、1999年からは、戦艦ミズーリはハワイ州の真珠湾で記念艦として保存されています。戦艦ミズーリの右舷艦尾に残っている「カミカゼ・アタック・サイト」にまつわる逸話は、世界から訪れる人達に感銘を与えています。

「平和と友好のしるしとして、艦上で日米の関係者が対面するのは意義深いことである」
と、ミスーリ記念協会のドナルド・ヘス副会長は特攻隊員の家族らを招き、真珠湾に係留中のミズーリの艦上で慰霊祭を行うことを計画しました。

そして、水葬から56年たった平成13年の4月12日、慰霊祭が行われ、特攻隊員たちの遺族とウィリアム・キャラハン艦長の長男や元乗組員たちが対面します。

「キャラハン艦長の人道的な配慮に一言お礼を言いたい」
と、日本側の遺族の一人として出席したおひとり、鎌田淳子さんは、
「弟・隆とともに亡くなった甥の石野節雄が、半世紀以上過ぎてもこのように手厚く葬られていたことを知り、ようやく心の区切りがついた気がします」
と感謝の気持ちを語りました。

悲しみを抱き、乗り越え、平和をせつに望む人たちにとって、国境なんてありません。命の尊さを知り、人間のあたたかな心を忘れない人たちが未来の、世界の平和を築く原動力となっていくことでしょう。

参考文献

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1361430048

人は人のために死ねると思いますか?~塩狩峠 列車事故より~

凍える夜、小雪がちらつく北海道の塩狩峠で、その壮絶な事故は起きてしまいました。

それは明治42年2月28日のこと。峠の急こう配にさしかかった列車の最後尾の客車をつないでいた連結が突然外れました。一瞬停止したように見せかけ、前を走りさる列車とは逆の方向に、取り残された客車は峠の急こう配の坂を転がるように、グングンスピードをあげて下っていきます。

このままいけば、必ず脱線し転覆する! 
乗客たちはこれから起こるだろう悲惨な地獄絵図を思い浮かべ悲鳴の渦が巻き起こります。しかし、その中で一人、冷静に事態を見据え動きだした人物がいました。鉄道職員でありクリスチャンでもある長野政雄氏です。彼はこの時、偶然乗客として乗り合わせていました。

鉄道の知識のある彼はとっさにデッキに飛び出し、客車に備え付けられているハンドブレーキを引きました。ブレーキ音が鳴り、少しずつスピードは和らいだように見えました。しかし、塩狩峠の勾配はなまやさしいものではありません。客車は止まることなく動きつづけ、行く先に待ち構えている急こう配にさしかかれば、再びスピードを上げ乗客たちを死の淵へと導いていくことでしょう。

「どうすれば助かるのか」さまざまな考えが頭をよぎり、彼は決意します。長野氏は一瞬、恐怖に震える乗客たちの方に振り向き、うなずくとためらうことなく線路に飛び込みました。ガコンッという衝撃と共に、客車はようやく停止。

何事かと、客車から降りた人々が目にしたのは、客車の車輪の下に横たわっている長野氏の血だらけになった姿でした。

そうです、彼は自らの身体を投げ出して、車輪の歯止めとなり、客車の暴走をくい止めたのです。彼の壮絶な姿を見て感謝と共に深く強く心を動かされ涙を流さない者はいませんでした。それはまるで、全ての人々のために身を投げ出したイエス・キリストの尊貴な姿と重なります。

長野政雄氏が客車から飛び落ちたのはもしかして事故だったのではないか? いいえ、彼の懐から遺書が見つかりました。それは世を捨てる意味の遺書ではなく、「いつでも、神と隣人のために命をささげる」という決意を書き記した遺書だったのです。

「人は人のために死ねるか」
愛する家族のためなら出来るという人も中にはいるかもしれません。きっと、キリストの教え通り、彼にとってはこの世の命あるもの全てが愛すべきものだったのでしょう。彼の深遠なる清らかな愛に感謝します。

参考:http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nagano.htm

生まれつき両手足がないニック・ブイチチ ~希望に満ちたメッセージ~

もし、生まれつきあなたに手も足もないとしたら? そして、そんな身体なのに、転んでしまったとしたら、あなたは起き上がることができると思いますか?
「そんなの出来るわけがないよ」ほとんどの方はそう思うことでしょう。しかし、彼は、頭を本の上に置き、腰を徐々に頭に近付けよじり、身体を曲げたかとおもうと、しなやかにヒョイと起き上がったのです。

1982年、オーストラリアで産まれたニック・ブイチチには、手足がありませんでした。先天性四肢欠損症という障害を持っての誕生です。左腿にわずかな足先に似ている肉塊がちょっと付いています。出産の時、立ち合っていた父親は気を失いそうになりました。母親は、4か月間授乳をする気力もないくらいに悩み苦しみうちひしがれてしまったそうです。

ニック・ブイチチは8歳の時に、自分の将来が見えてきたと言います。自分には手もない、足もない。されから先、結婚もできないだろう。仕事もない、自分の人生にはまったく意味がないと思いだします。

両親は障害者の学校ではなく、ニックには普通の学校に通ってほしいと望みました。彼は障害者でありながら普通の学校に通いだしたオーストラリアではじめての子供になりました。

もちろん、惨憺たる学校生活がはじまりました。いじめにも繰り返し合います。おまえは生きている価値のない人間だと言う悪意のこもった言葉を浴びせられます。自分には何もできないことは家の中でもひしひしと感じていました。食事も着替えもすべて親がいなくちゃ生きていけない。希望が全くない!

10歳の時に、ニックは自分の命を閉じようと試みます。わずか4インチの深さの水があれば溺れて死ぬことができる。バスタブにはられた水。しかし、その時に思い浮かんだのは両親の姿でした。「もっとしてあげられることがあったのでは」と、ニック.ブイチチのお墓の前で嘆き悲しむ両親の姿。ニックは自殺行為を途中で辞めました。

どうして、ニックは自殺を辞めることができたのか。それは、両親から溢れんばかりの愛を受けて育ってきたからです。両親に悲しい思いをさせたくなかったからでした。「私はそのままで美しい」「両親は僕を愛している」この二つが無ければ、ニックは今存在しなかったと言い切ります。

ニックは自殺を辞めた後、弟のアローンに、「21歳まで頑張って、弟や妹が成長したら死のう」と思っていることを打ち明けました。そして、父親の耳にその思っていたことが入ってしまったのです。

寝ているニックの元へ父親は来ました。そして、ニックの頭を撫でながら、いたわるような優しい声で「みんなお前の味方だ。すべてうまくいくさ。どんな時でも私たちがついている。安心しなさい」と語りかけてくれました。その言葉に癒され、父親が言うからには、それは本当のことなのだと不思議に素直に言葉が心にしみていきます。両親を信じて希望を持とうと思ったそうです。

そして、友達からも大きなきっかけをもらいます。「小学校では補助員、家では家族が手伝ってくれるけどそれでいいわけ? 恥ずかしくない?」 彼女は賢く、本当にニックのことを思い、心配して口からでた言葉だとニックは感じました。それまでは見ないようにしていた部分。しかし、これからは恐怖心をふり払い何でも自分で挑戦することをその時から始めたのです。

世の中に転ばない人は一人もいません。彼は100回失敗しても、挑戦し続ける限り可能性はある!と言います。まず、はじめに挑戦したのはシャワーを一人であびることから。父親がシャワーの取手を左右にひねるタイプのものからレバータイプに付け替えてくれました。歯磨き、服の脱ぎ着、次々と課題をクリアしていきます。

そして、今ではゴルフ、釣り、サーフィン、スイミング・・・すべてこなせるニックがいます。もちろん、その努力と道のりははるかに想像を超える険しさだったことでしょう。

また、彼はユーモアたっぷりに語ってくれます。「ぼくには手足がないから、関節症もない。皆さんは手足があるから関節症に悩むかもね」と。

8歳の頃、結婚できない、仕事もない、何の希望もないと言っていたニック・ブイチチは日本人の女性と出会い結婚。今ではかわいらしいお子さんもいらっしゃいます。そして、世界各国で講演会やセミナーを開催。数限りない人々がニックに励まされ感動の渦が巻き起こっています。ニックは出会った一人一人の人生に光を注ぎ希望を贈り続けているのです。

筋ジストロフィーと闘う兄弟

東北で筋ジストロフィーという難病と闘いながら、毎日を前向きに生きている兄弟がいます。

筋ジストロフィーが襲ってきたのは中学校の時。それまで登ることができていたバスのステップに足がとどかない、どうしても乗ることが出来なくなってしまった兄の健一さん。バスに乗れず、足をひきずり何度も倒れ、歩きつづけるうちに動けなくなってしまいました。悔しくて泣きそうになった時に、探しにきてくれたお母さんに発見され、お母さんの背中におぶわれて帰ったそうです。

筋ジストロフィーとは、少しずつ筋肉の力が弱くなり変性、壊死し、骨格筋だけではなく、多臓器を侵す全身疾患です。原因不明で、まだ治療法は確立されていません。

健一さんは25歳の時に呼吸不全に陥り意識を失い、命は取り留めたものの気管切開で声を失いました。弟の航さんもほぼ同じ時期に呼吸管理が難しくなり、今、お二人は完全24時間介護が必要な状態です。

お母さんが介護で倒れた時に、家族に負担をかけながら生きている自分を悔しく情けなく思ったそうです。しかし、そんな二人を心から励まし元気づけるお母さん。「人生を充実させるのも、つまらなくするのも、自分次第。悔いを残しちゃいけない。自分の人生は、自分で責任を持ちなさい」と二人に声をかける強い母の言葉。しかし、大変さをわかっていながら、力を振り絞って語ったお母さんはどれほどつらかったことでしょう。

家族の励ましが力となって、お二人は支え合いながら、自分の進むべき道を見つけ出しました。ある春のこと、電動車イスで病院内の敷地を散歩していた健一はうららかに咲き誇る満開の桜を目にし、まるで自分を励ましてくれているようだと感じたそうです。

生命にみちあふれた花々を描きたい。手は自由がきかないが、パソコンのマウスを動かすことで、葉脈や花弁の一つ一つを活き活きと描き表わしていきました。

111点の作品が「植物画と歌のハーモニー」という一冊の画集にまとめられました。副題は「生きた証のパソコン画」となっています。暖かさと生命力が満ちあふれる素敵な絵の数々です。

弟の航さんは、昔から読書が大好きだったそすです。時が進むにつれ、航さんも身体の自由が奪われて行きました。正直言って死にたいと思ったこともあったそうです。しかし、時には打ちのめされながらも病魔に負けることなく、闘っていく道程を生きる証として五行歌に表わしました。

「しあわせ/輝く/こころの大地は/すべて自身で/拓けと母は」
「責めないで/責めないでいいよ/お母さん/ぼくの苦楽は/丸ごと宝となっていく」
そして2013年に詩集『点滴ポール ~生き抜くという旗印』が出版されました。

筋ジストロフィーと闘い、生命を輝かし光を発する御兄弟の姿は、とてもまぶしく感じられました。

参考:http://d.hatena.ne.jp/kawamotoblog/20130120
   http://d.hatena.ne.jp/kawamotoblog/touch/20130120/p9