イランと日本の強い結びつき

『海賊とよばれた男』という小説をご存知ですか? 
内容は知らなくても、ミリオンセラーとなった話題の本ですから、きっと一度は耳にされたことがあると思います。

『海賊とよばれた男』は出光興産の創業者、出光佐三さんをモデルにした小説ですが、ほとんどがノンフィクション。戦後の弱い立場にあった日本の、しかも小さな石油会社が、世界の強国を相手に、勝利を勝ち取った物語と言えるのではないでしょうか。

今では日本も先進国の仲間に入り、一つの独立した国として確固たる地位を築いていますが、1939年から1945年までつづいた第二次世界大戦で、大敗を期した日本は、大戦後、アメリカの統治下にありました。

同じように、かつてイギリスに支配されていたイランは、第二次世界大戦後独立をはたし、イラン国内の石油資源の国有化を宣言しました。しかし、これを快く思わないのはイギリスです。イギリスは、海軍をホムルズ海峡に派遣して封鎖。イランに石油を買付に来たタンカーは撃沈するという表明を世界に発信したのです。

そのようなイランの状況と、アメリカの間接的統治で石油を自由に輸入できない日本の未来を憂慮した出光興産の出光佐三社長は、イランから石油を輸入することを決意し、秘密裏にイランと交渉をしますが、はじめは、小さな日本国の中小企業の一つにすぎなかった出光興産の言うことをイランは鵜呑みにはできなかったようです。

しかし、幾度も話し会いを重ね、出光興産とイランの本気の闘いが始まります。世界を味方につけるために、国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など準備を入念に整え、日章丸は1953年3月23日9時神戸港を極秘裏に出港しました。

航路も行き先をサウジアラビアとして偽装。本当の行き先を知っていたのも、船長と機関長の二人だけでした。戦時中に培った見事な操縦でイギリス海軍の包囲網を掻い潜りイラン・アバダンに入港。そして、イギリス軍の包囲網と浅瀬や機雷などを突破し、ガソリンや軽油25、000キロを満載して帰国したのです。

これは世界中を驚かせました。日本が中東に目を向け、メジャー支配に挑戦し産油国と直接取引をした先駆です。しかし、イギリスは石油は自分たちのものであると主張し、仮押さえ処分の裁判(東京地裁)となりますが、国際世論が出光興産とイランの味方になってくれたこと、アメリカが黙認したことにより、イギリスは提訴を取り下げ、国際社会に日本が独立し、経済独立後の日本をアピールした快挙となったのです。

この日章丸事件はイラン人が親日的である理由の一つであり、両国はとても友好的関係を今でも強く結んでいます。

奴隷廃止に30年をささげた:リヴィングストン物語

デイビット・リヴィングストン

I determined never to stop until I had come to the end and achieved my purpose.
終わりに到達するまで決してやめないと決心したら、自分の目的に到達した。

デイヴィッド・リヴィングストン 1813年3月19日 – 1873年5月1日

ビクトリア滝の発見で世界的に有名な探検家リヴィングストンを知らない者はほとんどいないだろう。
彼はヨーロッパ人で初めて、当時何の情報もなく「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカを横断を成し遂げた。
困難を成し遂げ、アフリカ大陸の詳細をヨーロッパへもたらし、また奴隷廃止・解放に向けて尽力した人物でもある。
1971年からスコットランドのクライズデール銀行が発行する10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。

しかし彼は今日よく知られている「探検」よりも「宣教師」としてキリスト教を広めるために、また「奴隷解放」を実現するために心血を注いだ。
「あくまでも自分の第1の目的は宣教であり、探検はその拠点を探索するための手段である」

貧しい幼少時代

デイヴィッド・リヴィングストンは1813年にスコットランドで生まれた。
家庭が貧しかったがゆえに、彼は10歳の頃から紡績工場で働き始める。
しかしその間、向上心の強い彼は独学でグラスゴー大学へ進み、医学、神学を学ぶ。
やがてドイツの宣教師、カール・ギュツラフに深く感銘を受け宣教師になり、布教することを志すようになる。

アフリカ探検・奴隷解放

当初中国での医療伝道師を目的としていたリヴィングストンだが、阿片戦争によりその目的を諦めざるを得なかった。
その後1841年にプロテスタントの医療伝道師として南アフリカへ行き布教と医療を続ける中で、熱病、ライオンに襲われ左腕に重傷を受ける、飢餓に苦しむ等数々の困難に見舞われるが、それでもアフリカ大陸での布教と探検を続けた。
ライオンに襲われた時の傷は、のちに彼を識別する証拠となったのは皮肉な話である。
また、当時彼の布教を助けてくれたのは奴隷商人であったため、後々まで彼はこのことに苦悶することになる。

その後も布教のための土地を探し求め各地を探検。
奴隷貿易による搾取を廃絶するために、中央アフリカの交易ルートを探索する意図もあったが(農業振興と出荷ルートの開拓が必要で、有効な交易ルートさえ確保できれば奴隷廃止へつながると、彼は考えていたのである)これまでのアフリカの地図にはなかったザンベジ川、ヌガミ湖、世界最大のビクトリア滝の発見という数々の功績にもつながることとなった。
また現地の言葉を覚え、自らアフリカの人との交流も行った。

帰国・第二次アフリカ探検

1856年に資金不足のため帰国したリヴィングストンは、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功したという功績により、スコットランドの英雄として歓迎された。
『南アフリカにおける宣教師の旅と探検(Missionary Travels and Reserches in South Africa)』を執筆し、これは大ベストセラーとなるが、ロンドン宣教協会からは
「一箇所に定住せずに、布教をおろそかにし、方々を探検していた」ことを理由に除名処分を受けてしまう。

しかし、1858年に女王の勅命によるキリマネ駐在大使、ならびにザンベジ探検隊の隊長に任命され、同年3月に再びアフリカへと足を踏み入れることとなる。
この2度目の探検中に、同行した妻はマラリアのために命を落としてしまう。
悲嘆に暮れながらも探索を続けたが、1863年に政府からの帰還命令を受け、イギリスへ帰還。

1865年には、彼は2冊目の著書『ザンベジ川と支流(The Zambesi and Its Tributaries)』を執筆。
著書の中にある奴隷貿易および現地人への虐待や虐殺の実態に関する悲惨な事実は、当時の人々を驚愕させ、かつ奴隷貿易に対し嫌悪させ、結果的にイギリスの世論を奴隷貿易の廃止への風潮と導くものとなった。
一時帰国した際には著作・講演などにより、強く奴隷廃止を訴えたため奴隷商人とは険悪の仲であった。
このために彼は、危機感を抱いた奴隷商人に探検中に何度も妨害され、時には暗殺されかかるなどの目にあっている。
危機を抱かせる程、それだけ彼の影響力は当時絶大だったと言えるだろう。

最後のアフリカ探検

1865年8月14日、ナイル川の水源を突き止めるため再びイギリスを発ち、アフリカの大地へ足を踏み入れたリヴィングストンだが、これが彼の最後の旅となる。
出発当初には36人いたポーターは、過酷な旅や奴隷商人の妨害により最終的には4,5人程しか残っていなかった。
また彼を快く思わない奴隷商人たちは、ポーターを買収し「リヴィングストンは死んだ」等という虚偽の話を流布させ、医療道具一式が入ったカバンを盗んでしまうなどの様々な妨害を行う。

苦難の果てにMoero湖、バングウェル湖の発見に至るが、病に倒れ静養のため一旦タンガニーカ湖畔の村、ウジジへと戻ることとなった。
その間、1,500人もの奴隷が虐殺される場に偶然立ち会ったが、病床にあった彼には、もう奴隷解放のために戦うだけの力は残っていなかった。

一方イギリスでは、すでに3年以上も連絡が途絶え、死亡説まで流れている英雄リヴィングストンを探索しようとする動きもあったが、過酷な旅や現地での妨害のために、ことごとく失敗続きであった。

リヴィングストン博士、ですよね?

1869年、アメリカの「ニューヨーク・ヘラルド」紙の経営者ジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアは莫大な資金提供と、発見が成功した際の報奨金を提示し、特派員の1人であるヘンリー・スタンリーに彼の捜索を依頼した。

スタンリーが、ようやくリヴィングストンを発見したのはリヴィングストンがアフリカへ経ってからすでに6年後のことであった。
ウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇した彼は、従者に案内され、ついに面会することとなる。
骨と皮になるほど痩せ衰えてしまったリヴィングストンを見て、スタンリーは思わず
「リヴィングストン博士、ですよね?(Dr. Livingstone, I presume?)」
と発した。

この対面での発言は、思いがけず人と対面した時の慣用句としてイギリスで使われ、流行するほど、劇的なエピソードとして伝わった。
その後二人は4ヶ月をともに過ごし、リヴィングストンに心酔したスタンリーは、彼の健康のために帰国することを強く勧めたが、リヴィングストンは、ナイルの水源を突き止めるため、探検を続けることを強く望み、この申し出を拒否した。
「もしもわたしのこの地におけるひどい奴隷制度への告発が、東海岸の奴隷貿易を抑止することにつながるのであれば、それは、ナイルの水源を発見するより断然にすばらしいことだとわたしは考えています。」
と、書き遺しているように、ナイルの水源を突き止めるという本来の使命より、かれがずっと願ってやまなかった奴隷制度を廃止したいという思いのため、それまでは帰れないという使命が強かったのではあるまいか。

イギリスへ向けて旅立ったスタンリーは、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送った。

1872年4月29日。
ついにバングウェル湖南側の村、チタンポへたどり着いたが、日記に記録を書き付ける余力もないまま、5月にリヴィングストンはマラリアと赤痢の複合症により息を引き取った。
心臓は抜き取られ現地で埋葬され、彼を尊敬していた現地の従者たちは深い悲しみに暮れる中、遺体も現地で埋葬しようとする動きに対し、彼の亡骸に簡単な防腐処理を施した後、彼の日記や記録、医療品と一緒に2,500キロもの道のりを運ばれ、故郷のイギリスへ届けた。
当時交通機関が全くないアフリカの地での行程である。
どれだけ彼が現地の人に愛され、尊敬されていたかが伺えるものではないだろうか。

その後彼の遺骸は、左腕の傷跡により本人であると確認された後、ロンドンのウェストミンスター寺院に葬られた。
享年60歳。

サンジバルでは彼の努力が実り、その没年である1873年に奴隷制は廃止されている。
またザンビアには彼の名にちなんだ都市リヴィングストンがあり、彼功績をたたえた記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っている。

<参考>
大人のための世界偉人物語  金原義明 著
人間臨終図鑑 山田風太郎 著
デイヴィッド・リヴィングストン物語 My Wonder Studio(http://www.mywonderstudio.com/)
アフリカの聖者・リビングストン 児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ:いずみ書店(http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/03/post_905.html)
WikiPedia デイヴィッド・リヴィングストン

WBC2013 魂のベストゲーム~日本vs台灣~

2013年。
震災からまもなく2年が経とうとする、3月8日に行われたWBCでの日本対台湾の試合。
9回2アウトから、土壇場での逆転。
この試合は多くの日本人を感動させました。

しかし、試合後。
地上波では放送されなかった、台湾チームの振る舞いにより日本人の多くが驚くこととなります。
それは。

ツイッターの呼びかけから

6日のこと。
ある一人の日本人ユーザーがツイッターで

wbc
WBC、日本は初戦が台湾に決定。
この試合を見に行かれる方、先般の東日本大震災への台湾からの多大な支援のお礼の横断幕やプラカードをお願いします。
WBCを通じ、日本と台湾の信頼関係を深め、私達が本当に台湾に感謝している事を伝えて下さい

と呼びかけました。

東日本大震災で、台湾は世界最多となる200億円以上の義捐金。
毛布、衣類、食品等400トンを超える様々な支援物資を送ってくれました。
それだけではなく「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」と
要請があればいつでも援助隊を出動可能な状態に待機させ、いちはやく派遣してくれたのも台湾。
そのことに感謝を示したい。

そんな思いから、この呼びかけはまたたくまに日本中に拡散。
ところが、このツイートは日本だけにとどまらず中国語に翻訳され、台湾にも広まります。
しかし、すでに試合のために来日していた選手はこのことを知りませんでした。

礼には礼でこたえる


試合当日。
日本人側のスタンドには、ツイッターの呼びかけに答えた、「謝謝台灣(ありがとう台湾)」とかかれたプラカードを持つ多くのファンの姿が。
台湾の選手は、それを見て初めてプラカードの存在に気づきました。

これが、WBC史上に残る名勝負の幕開けでした。

試合は、台湾の優勢で日本を追い詰めます。
ところが夜23時半を超えても、この名勝負には決着がつかず、10回表、ついに日本が逆転します。
その裏、最後にはまるで高校野球のようなヘッドスライディングを見せる台湾選手でしたが、追いかけてきた背中にあと一歩届きませんでした。

しかし、この物語はここまでではありませんでした。
日本の地上波では放送されなかったシーン。
勝利し、喜びを爆発させる日本選手たちの後ろで、ベンチを出ていく台湾選手たち。
彼らは全員マウンドに向かうと全方向の観衆に向かって深々とお辞儀をしました。
その姿に、ドームにいた観客は台湾の選手たちへ惜しみの無い拍手が送られました。
試合の勝ち負けを超え、どちらも礼儀正しくお互いを讃え合う、礼には礼でこたえるという姿勢。

ホームグラウンドでもない私たちを日本のファンは応援してくれる。
…それに感謝したい

また、多くの日本人がプラカードを掲げ台湾に感謝の気持ちを伝えたいという様子は
インターネットで拡散されたり、台湾のTVでも取り上げられるなど、台湾の人にも感動を与えました。

<参考>
Mr.サンデー
WikiPedia:東日本大震災に対するアジア諸国の対応

東日本大震災で私たちがもらった中東地域からの贈り物

2015年は阪神淡路大震災から20年目の節目。
追悼の式典が行われ、当時の様子を含め震災特集のテレビ番組も放送されました。
当時、あまりの体験に口を開くことさえできなかった多くの方が、20年の時を経て、貴重なその体験を語り始めています。
世界中でさまざまな動揺が走り、人間社会への不信を煽るようなニュースがしきりに流されているいまこそ、私たちは大自然の猛威に立ち向かった人々の営為に耳を傾けるべきなのではないでしょうか。

日本人にとっては、その後の東日本大震災で見た自然の脅威も忘れ難いものです。
実際に被災された方の思いは推し量ることしかできませんが、被災しなかった人々もまた心に傷を負うほどの脅威でした。
そのような脅威にさなかにあって、日本は多くの国々から人道支援を受けました。
救助支援や物資面での救援、寄付金、励ましのメッセージ、勇気づけてくれる歌など、そうした支援によって私たち日本人はどれほど勇気づけられか分かりません。
実際に支援を受けた被災者の方だけでなく、恐ろしさにうつむいてしまった私たちの背中を押してくれたのは、そうした皆さんからの心からの支援だったのではないでしょうか。

東日本大震災当時、日本が受けた各国、地域からの緊急支援については、外務省のウェブサイトを見れば知ることができます。
外務省の発表によれば、163か国、地域及び43国際機関からの支援の申し出を受け、24の国と地域から緊急救助隊や医療支援チーム、復旧支援チームなどが到着して活動してくれました。
現在、混乱の激しい中東地域からも、イスラエルやトルコ、ヨルダン、サウジアラビア、イラン、カタールなどからさまざまな形で支援を受けています。

カタール国の基金からは、三陸地方の水産業を再活性化するための基金が援助され、それがいけす導入などの費用に活用されています。
アフガニスタンのゴール県では、震災被災者を支援するための募金箱が設置されました。
アラブ首長国連邦ではチャリティイベントなどが開催され、小学生による励ましのアルバムが届けられました。
イランでも各地でチャリティイベントが開催され、駐日イラン大使自ら被災地に赴いて被災者への食事の支援を行いました。
オマーンでもさまざまな支援イベントが行われ、多額の義援金を寄付してくれました。
クウェートからは子供たちが折った復興を祈る千羽鶴が届けられました。
サウジアラビアでは仮設住宅のLPガス料金の補助事業を開始しました。
こうした人々の善意の援助があってこそ、いまの私たちの生活があるのだと思います。

いま日本では、政府の人道支援策について国会で答弁がなされています。
2015年1月17日、エジプト訪問中の安倍首相は首都カイロで政策スピーチを行い、中東地域の平和と安定に向け、人道支援やインフラ整備などの非軍事分野に新たに25億ドルの支援を行うと発表しました。
しかしその後、日本人誘拐というテロ行為が発生したことで、そうした人道支援策の是非について問われています。
本国会がどういった形で決着するかはともかく、願わくば、そうした支援が本当にそれを必要としている人々の元に届いて欲しいものです。
私たち日本人が受けた恩を中東地域の人々にお返しして、それが平和へとつながっていくことを祈らずにはいられません。
中東地域の人々の心に真の平和が訪れ、それが世界の平和の礎となってくれることを願っています。