「世界の国の中で、どこの国が一番好きですか?」と聞かれて「日本」と多くの方が答えてくれるのはトルコの国民の皆さんです。
トルコの世論調査では、大好きな国として日本が必ず1位になるとのこと。うれしいですよね。でも、どうしてこんなに日本を好きでいてくれるのか、ちょっと不思議?実は、トルコが親日国なのは、心あたたまる歴史上のある出来事がきっかけです。
16世紀、地中海の一大勢力といわれたオスマン帝国海軍。しかし、時とともに近隣国のロシアやギリシャの海軍に敗北をするなど、悔しい状況に陥っていたと言います。
そんな苦境の中、立て直しをはかり、1890年、オスマン帝国の航海訓練として、また、明治天皇の表敬訪問に来日していたのがオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号。全長76mの木造の軍艦です。
そして、9月15日、軍艦エルトゥールル号は横浜港を出港。その日は台風が迫っていたので、日本は出港を先延ばしにした方がいいのではと提案したほどでした。
1890年(明治23年)9月16日、日本の紀伊半島付近を航行していたトルコの木製軍艦エルトゥールル号は、大型台風のまっただ中にはいってしまいました。和歌山県の南端に位置するの紀伊大島付近で大波と暴風に押し流され、「魔の船甲羅」と呼ばれる荒々しい岩礁に乗り上げ大破。水蒸気爆発を起こし、衝撃で船員はあるものは海に投げ出され、あるものは海に飛び込み遭難するという大事件がおこりました。
船員の一人が紀伊大島の岩場に打ち上げられ、意識を取り戻したときに目にしたのが、日本最古の石造りとしても有名な樫野崎灯台の光です。傷を負いながらも崖を上り、灯台守に助けを求めました。
爆発音を聞いた灯台守はトルコの木製軍艦エルトゥールル号が遭難したこの事態を知り、樫野の村民たちと救助に向かいました。遭難した船員600人中、助かったのはわずか69名。村人は助けたトルコ人たちを樫野地区の寺や小学校に連れて行き、備蓄していた米などはもちろん、最後の非常食用にと大切に飼っていた鶏まで食糧として与え手厚く介抱しました。
報告をきいた日本政府も動き、医師や看護婦が派遣され、その後、回復したエルトゥールル号の船員たちは日本の軍艦「比叡」と「金剛」でトルコに送還されました。
日本人の心づくしのもてなしにトルコ国民は感激し、今では、トルコの教科書にも、この遭難事件の事が載せられ、語りつがれています。
また、その恩を忘れずにいたトルコに、日本人が助けられたこともありました。
それは1985年(昭和60年)3月17日、イラン・イラク戦争での出来事です。当時イラクの大統領だったサダム・フセインが、48時間の猶予期限後、イランの上空を飛ぶ全ての航空機を攻撃する」と突然宣言し、世界中がパニックになりました。
イランにいた外国人たちは、それぞれの国の航空機や軍の輸送機が国民の救出に来て助けられていきます。しかし、日本だけは、日本政府のGOサインが出されず、215人の日本人は取り残されたまま時間が刻々と過ぎて行きます。
3月19日の午後8時30分のタイムリミット直前でした。テヘランのメヘラバード空港へトルコの航空機が日本人を救出するために来てくれたのです。
リミットまであとわずか数時間というギリギリの奇跡の救出です。取り残されていた日本人215名はトルコ航空機のおかげで、無事イラン国外へ脱出できました。この時、トルコの救援機が自国民よりも日本人を優先して助けたことについて、トルコ国内ではなんの批判も出なかったとのこと。
その後、駐日トルコ大使はこの奇跡の救出について「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と語ったそうです。恩を決して忘れない、トルコのあつい友情に感謝の気持ちがこみ上げてきました。
参考文献
「エルトゥールル号の遭難」~生命の光から~