冒険記~音楽という目に見えない風景を通じて~

「人生は冒険だ」…昔から伝わる名言です。私たち人間は、生まれた時から新しいことにチャレンジし、冒険を繰り返して大人になっていきます。ただ、その「冒険」を自分自身の障害によって諦めている人たちがいるのも事実です。

視覚障害を抱えている熊本盲学校の生徒たちもその中の一人だったかもしれません。その中で学校は、助け合うこと・仲間をつくることなどの指導の一環としてアンサンブル部を創設します。そこへボランティアの指導員としてプロの打楽器奏者である冨田さんが招かれました。

アンサンブルとは…2人以上が合奏、合唱することです。熊本盲学校では自由な楽器の組み合わせでアンサンブルへ取り組むことになりました。冨田さんは週に1回、学校へ通って指導をしていくことになりました。4か月後には特別コンサートを行うことも決定していました。しかし、部員たちは全盲や弱視で楽譜をよむことがきません。冨田さんは、それぞれのパートにわけて音源を録音し、それを聞きながら楽譜を覚えるようにしました。
さらに口頭での指示は目の見えない彼らにはわかりづらいものがあります。「バチは下から3分の1を持つ」は実際にどこを持つのか、鍵盤の位置はどうなっているのか、1人ずつ手に取って指導をしていくことになりました。

冨田さんは指導を引き受けてから心に決めていたことがあります。
「自分自身は健常者で視覚障害のある部員たちの本当の苦しみはわからない、だからこそ普段通りに指導をしよう。障害があるからといって優しく指導するのは彼らに失礼だ」

当然、指導はいつも通り厳しいものとなりました。週1回の指導後は必ず取り組むべき課題が設定され、部員たちは授業以外でも必死に課題をクリアするべく取り組みました。
ある部員は音楽経験があり、みんなが課題に必死に取り組んでいても自分はできるから…と先に帰宅することもありました。冨田さんが参加しての合同練習の時、練習の成果がみえつつもどうしても音が合いません。出来るはずの部員が足を引っ張っていたのです。課題は技術を磨くものではありますが、アンサンブルには協調性が不可欠なのです。その生徒はアンサンブルに参加することが全くできませんでした。その部員は自分に足りなかったものを自覚すると共に、他の部員たちもアンサンブルは気持ちをひとつにして演奏することが大事であることを学んだのでした。

アンサンブルは指揮者がいません。健常者であればアイコンタクトで演奏を始めることができますが、彼らにはそれができないのです。またバチや声掛けなどは減点されてしまうのでこれもできません。冨田さんは彼らが健常者よりも聴覚が発達していることを利用して息づかいで聞き分けてタイミングを合わせることにしました。視覚障害の壁をまたひとつ乗り越えることができました。

創部4か月後のコンサートを部員たちは無事に終えることができ、ホッとしたのもつかの間、冨田さんは部員たちに言いました。
「全日本アンサンブルコンテストに出場する」
これはアンサンブルを行う全国の精鋭たちが集まる大会です。もちろん、障害者の出場など聞いたこともありません。この目標へ向けてさらに練習は厳しさを増したのですが、自分たちが障害者であることや想像することもできない高い目標、来年卒業する自分たちの将来…不安を覚えた部員2人が退部を申し出ました。冨田さんは彼らの気持ちもわかりつつ、1通の手紙を彼らに読みました。コンサートに来てくれたある少女からの感謝の手紙でした。そこには部員たちの努力へ思いをはせつつ、自分がどれだけ演奏に感動をしたかが感謝の言葉とともにつづられていました。
障害者だからと悲観的になっていた自分たちが、誰かに認められ必要とされていること、今確かにここには自分たちの居場所がある…様々な迷いや不安は消え、熊本支部予選に向かいました。熊本盲学校は見事金賞に輝き、全国大会へすすむこととなりました。

創部以来のリーダーが病に倒れました。冨田さんは病を抱えた部員に無理をさせたことで自分を責めたようです。彼の母親にも謝罪をしました。リーダー不在でアンサンブルが成立するか、全国大会へ出場するのか諦めかけていた冨田さんに、彼女はしっかりと伝えました。
「どうか続けさせてやってほしい。」
息子が明るくなり、イキイキと演奏をしている姿をみて、この流れを断ち切ってしまうのは息子自身が死ぬことよりも辛いことだと母親として感じていたのでしょう。

全国大会へ向けてさらに厳しく練習を積む中、部員たちは冨田さんの誕生日にメッセージカードを渡しています。
「プレゼントは全国大会の金賞です。」

全国から集う精鋭たちの中で、視覚障害者であることなど忘れてしまうほどの見事な演奏を披露し、熊本盲学校は初出場ながら金賞に輝きました。

部員達はもちろん喜びましたが、それ以上に得たものがあったと言います。
「金賞はその場限りだが、友情は一生残る」
「信頼関係を築けたことを誇らしく思う」
一足先に卒業をしたリーダーも同じように感じています。
「今でも仲間として繋がっている」

冨田さんは自身の著書、「息を聴け/熊本盲学校アンサンブルの挑戦」出版前にこのように言っています。
「これは健常者と障害者の美談やサクセスストーリーではありません。音楽という目に見えない風景を通じて、人としての生き方や考え方といった漠然としたものを、彼らと必死に探ってきた『冒険記』であると私は感じています。」

冒険の先にどのような光景が広がっているのか…きっと再び新たなスタートをきる勇気が備わっているに違いないでしょう。

参考資料
www.bandpower.net/soundpark/essay/01_relay/12_tomita.htm
www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-425.html

じぶんの命よりも、生まれてくる娘の命を望んだ母

「生きたいのに生きる事が出来ない。」
悲痛な叫び声が聞こえますか?

今、自殺者は年間で30000人を越えるといいます。
その一方で、生きたい!と願っているのに、病にその命をうばわれていく人もいることに、かなしい不条理を感じます。

「ゆりちかへ~ママからの伝言~」
これは難病に侵されたテレニン晃子さんが、限られた命の中で、天から授かった幼い娘、ゆりあちゃん(愛称 ゆりちか)に残した愛のメッセージです。

2002年4月、晃子さんは、ロシア人の男性、テレニン・レオニドさんと国際結婚しました。まもなくして妊娠がわかり、二人は喜びと幸せにつつまれていました。

しかし、2005年12月のことです。妊娠5か月目にはいった晃子さんは突然、激しい腰の痛みに襲われました。歩けないほどの激痛。

お腹の中の子に万が一の事があってはと、病院で病理検査を受けました。結果は残酷なものでした。

「脊髄ガン」、からだ全体の神経が集中する脊髄がガンにおかされ、手足のしびれや知覚障害など、全身に障害がでやすく、転移の可能性が非常に高い難病です。とにかく一刻も早い治療が必要とのこと。

でも、晃子さんのお腹の中には赤ちゃんがいます。放射線や抗がん剤を使う治療は、おなかの赤ちゃんに深刻なダメージを及ぼすことは必須。

「あきらめなければいけません」と医師に言われたテレニンご夫婦。
「難しいね、パパ」
せっかく授かったかけがいのない小さな命。自分自身の命か子どもの命か。
究極の選択です。ツライ選択を迫られてしまいました。

「ママはパパに約束したの。パパに健康な赤ちゃんをあげるってね」
お腹の子にやさしく語りかけました。そう、晃子さんは自分の命ではなく、赤ちゃんの命を守ることを選んだのです。

それは、自分の死への秒読みの開始でもありました。

2006年2月6日、無事、ゆりあちゃんが誕生しました。1200グラムの小さな尊い命です。

「この子の為にも元気にならなくちゃ!」
さっそく晃子さんは抗がん治療をはじめました。
病気の悪化で手を自由に動かすことができない晃子さん。愛くるしい娘をその腕に抱くことのできないせつなさ。本当なら、お乳をこの子に飲ませてあげたい! しかし、抗がん剤を服用していては、お乳を飲ませることもできません。

ツライ治療に耐えつづける晃子さんですが、運命は過酷な方向へと進んで行きます。
『MRIをとると「ぜんぜん別の所に新しく大きな腫瘍ができていました」絶望的』

自分の命の炎が燃え尽きてしまう前に、晃子さんは決意します。
『ゆりちかが笑うと本当に可愛くて、こっちも幸せになります。その笑顔をこれからもずっと見ていたいのですが、何があるか分からないので、ママがゆりちかに話したいことを書きます。』

自分の体験をもとに、女の子として、人として、ゆりあちゃんに大切にしてほしい事を書きはじめたのです。

おしゃれ:「ゆりあにはおしゃれを楽しんでほしいな。たくさん、たくさん可愛くなってほしい。女の子だから味わえる素敵な楽しみがたくさんあるよ。ママが手伝ってあげたいなあ。ユリアの髪をまいにち違う格好に結ってあげたり、いろんなお洋服を着せたり、ママも楽しみたいです。アクセサリーも楽しんでほしい。ママのがあるから使っていいからね。パパに言っておくから。女の子はお金がかかるってね。」

お友だち:「ゆりあには、いいお友だちがたくさんできることをママは願っています。大事なことは、お友だちと、自分をすぐ比べないこと。ゆりあという人間は世界にたった一人しかいません。あなただけです。だからあなたは誰にも比べられないのよ。ユリアもきっとなやむときが来るんだろうな。ママが助けてあげたいよ!」

けんか:「ゆりあは女の子だから、なぐり合うようなけんかはあまりしないと思うけど、口げんかはやっぱりよくするかも。最近の若い人には自殺するところまでガマンしてしまう人がいるそうです。ばかみたいだね。たいていのことが死ぬほどのことじゃないのに、逃げちゃえばいいのにね!人間は一人で生まれきて、一人で死んで行くんだから、さみしいけど、さいごは一人なの。だから生きている間は、いっぱい好きな人と一緒にいて楽しい思いをするのよ!!」

伝えたいことはやまほどあります。つぎから次へと浮かぶ伝えたい言葉。しかし、病魔は晃子さんから、伝言を書く力さえも奪い始めました。

ならば、声を残そう! 晃子さんはあらん限りの力を振り絞って、テープにゆりあちゃんへのメッセージを録音していきます。

痛みと苦しみと闘いながら、テープに吹き込む娘への想い。心の叫びが切なく響きます。あふれる涙をおさえきれず、泣きながら一語一語心を込めて語る晃子さん。

『ママの身体は良くなりません。せっかくゆりちかを産んで、赤ちゃんにはお母さんが絶対、絶対絶対必要なんですけど あなたにいっぱいいっぱい教えたい事があるんですけど いっぱい話したいことがあるんですけど ママはあなたと一緒に生きる事が出来ないみたいです。』

『ママは死にたくないです、死にたくないです・・・』

2008年2月25日、テレニン晃子さんは眠るように息を引き取りました。

晃子さんは本の最後でこう語っています。
『ゆりあ、あなたはママが生きる目的です』

母の愛が詰め込まれた「ゆりちかへ~ママからの伝言~」は
ゆりあちゃんの支えとなり、大きな愛で包み込んでいくことでしょう。

参考文献:「ゆりちかへ~ママからの伝言~」(幻冬舎文庫)

ガンと闘う9歳の少年、母にあてた励しの言葉に涙

「おかあさん、もしナオが死んでも暗くなっちゃダメだよ。明るく元気に生きなきゃダメだよ。わかった?」
そんな言葉を、病と闘っている我が子から言われたら、心臓をギュッとしめつけられてしまいますよね。

「代われるものなら代わってあげたい」
もがき苦しむ我が子の姿を目の当たりにしながら、その姿を見守り、願うことしかできない親の辛さは、地獄の業火に焼かれるのにまさるものではないでしょうか。

『がんばれば幸せになれるよ』
小児がんと闘ったわが子の姿を母が記したこの本には、9歳の少年が母にあてた励ましの言葉がいっぱいつまっています。

山崎直也くんは、5歳の時に病魔に襲われました
「ユーイング肉腫」
10万人に1人といわれる子どもに多く発生する骨のがんです。
大変強い疼痛が特徴で、同じ悪性の骨腫瘍である骨肉腫よりも強いことがしばしば。体中に転移しやすく強い抗がん剤で治療しなければならない難病です。

子どもにはあまりにも過酷な治療。直也くんは痛みに耐え、必死に病と闘っていました。しかし、2001年6月、がんは全身に転移し、もはやなすすべもない状態になってしまいます。

目は開き身体はよじれ、直也くんは悲鳴とも絶叫ともつかない声で
「苦しい!息ができない!」と訴えます。
もうダメかもしれない。お母さんは我を失い、泣き叫びパニックに陥りました。
叫びながら病院中をかけめぐり、主治医を探しますが研修医しか見つかりません。

病状がおさまらない我が子を目にし、半狂乱になり周りに怒りをぶつけてしまいます。
「何もできないんだったら、あっちへ行ってよ!」

しばらくして、処置が効き始め、直也くんの呼吸が落ち着きました。
ほっとし、たちつくすお母さんが医師から告げられたのは
「今は落ち着いていますが、おそらくあと半日ぐらいだと思います。」との残酷な告知。

病室に戻り、平静を装うと必死のお母さん。その気持ちをいち早く察知したのは直也くんでした。

「おかあさん、さっきナオがあのまま苦しんで死んだら、おかしくなっていたでしょ。
だからナオ、がんばったんだよ。
それでも苦しかったけど。おかあさんがナオのためにしてくれたこと、ナオはちゃんとわかっていたよ。
『先生早く!』って叫んでいたよね。でも安心して。ナオはああいう死に方はしないから。
ナオはおじいさんになるまで生きたいんだ。おじいさんになるまで生きるんだ。
がんばれば、最後は必ず幸せになれるんだ。苦しいことがあったけど、最後は必ずだいじょうぶ」
そう、優しく母をさとすように語りかけたのです。

半日の命といわれた直也くん。しかし、彼は渾身の力を振り絞って頑張ります。

『夜10時過ぎ、直也は突然落ち着かない様子で、体を前に泳がせるようなしぐさをしました。
「前へ行くんだ。前へ進むんだ。みんなで前に行こう!」
 びっくりするほど大きな力強い声です。そして、まるで、迫り来る死と闘っているかのように固く歯を食いしばっています。ギーギーという歯ぎしりの音が聞こえるほどです。やせ衰えて、体を動かす元気もなくなっていた直也のどこにこれだけの力があったのかと驚くほど、力強く体を前進させます。』

また、直也くんは周りの人たちにも優しく語りかけていました。

『ある日、私が病院に行くと、主任看護婦さんが、「おかあさん、私、今日、ナオちゃんには感動したというか、本当にすごいなと思ったんだけど」と駆け寄ってきました。直也は、
「この痛みを主任さんにもわかってもらいたいな。わかったら、またナオに返してくれればいいから」
 といったそうです。「えっ、痛みをまたナオちゃんに返していいの?」とびっくりして聞くと、
「いいよ」
 と答えたそうです。
「代われるものなら代わってあげたい」。よく私もそういっていました。でも直也はそのたびに力を込めて「ダメだよ」とかぶりを振り、
「ナオでいいんだよ。ナオじゃなきゃ耐えられない。おかあさんじゃ無理だよ」
 きっぱりとそういうのです。』

どちらが大人かわからないくらいのあたたかい気遣いと深い愛を感じます。

死の告知をうわまわり、2週間後、直也くんは静かに息をひきとったそうです。

お母さんは泣きませんでした。それは、直也くんの命は永遠に生き続けている、肉体が滅びても直也くんは生きていると固く信じていたからです。
「身は滅びても命は永遠だよ。」
と直也くんはお母さんに話していたのですね。

「最後まで生きることをあきらめなかった直也の姿は、
私たち家族に、そしてたくさんの人たちに、勇気と励ましを与えてくれました。」
とお母さんは語ってくれました。
直也君と共に信じ、闘いきったお母さん、そして、最後まで頑張りぬいた直也君の心あたたまる言葉は、これからも全ての人へのエールとなるでしょう。

参考:『がんばれば、幸せになれるよ―小児がんと闘った9歳の息子が遺した言葉 』(小学館文庫)

感謝してもしきれない気持ちを書にこめて…

日本で有名な昔話である「鶴の恩返し」。子供のころに見たり・聞いたりした方も多いのではないでしょうか。
また、これをベースに舞台や映画・落語などにイメージをふくらませながら、現代においても親しまれ続けている昔話はそうそう多くはないと思います。

しかし、この「恩返し」は日本だけの話しではなく、お隣の中国でも実際にありました。国土も人口も日本とはくらべものにならないくらいの大きさの中国で、ある1人の男性の「恩返し」の話しが取り上げられました。またたく間に中国全土に広がり、感動と称賛を得た話です。

今から20年以上前に話はさかのぼります。中国は現在のように経済大国ではなく、経済を発展させるために努力をしている時期でした。当然、大都市以外の町や村は非常に貧しく食べていくのがやっとの人が大勢いました。
自分の村では食べていくことができずに、1人の青年がもう少し大きい町へ出稼ぎにでました。それでも200キロも離れた、決して栄えている都市ではない町です。出稼ぎにきたものの、なかなか職は見つけられず、そんな中わずかな所持金を盗まれてしまったのです。もう3日も飲まず食わずで、路上で力尽きようとしていた時、ある女性が青年に声をかけてくれました。女性は青年を家に連れ帰り、食事を与え、ゆっくり休めるように寝床を与え、青年の現状を見て夜遅くまで仕事を探してくれていました。貧しい自分の村、常に借金があり苦しい家、出稼ぎにきた自分に冷たい町、貧乏人から盗みを働く人…人を信じられなくなっていた青年には、信じられないようなことばかりがこの女性の家で起きました。体力を回復した青年は自分で再度働き口を見つけようとしましたが、やはりこの町も貧しかったのです。新たにさらに2000キロ離れた大都市に向かうことを決めました。出発の日、女性は青年に交通費とお弁当を渡してこう言いました…

「大切なのは誠実でいること、心のキレイな人でいなさい。きっと幸せになれるから。」

青年は女性のおかげで無事に大都市へ到着し、必死に職を探し、懸命に働きました。この頃は経済発展優先で労働環境は良くなかったといいます。賃金のカットはもちろん、踏み倒しなどもあったようです。それでもいつも女性の言葉を胸に、耐えて必死に働き続けました。その頃から時折女性に近況を伝える・尋ねる手紙を出し始めましたが、宛先が不明ですべて戻ってきてしまいました。

青年は女性に感謝することを忘れませんでした。時間を見つけながら女性を地道に捜索し続けていたのです。そして20年経ってようやく女性の居場所を探すことができました。結婚後、別の町で暮らしている女性の元に感謝を伝えに会いに行くことにしました。女性がいなければ自分は生きておらず、つらいことばかりだった人生に、人を信じることができる幸せを与えてくれたこと…感謝の気持ちがあふれていました。女性は20年前と変わらす貧しくも慎ましく、キレイに暮らしていました。青年は感謝の気持ちと共に、20年前に渡してくれたお金を返し、さらに100万元(日本円にすると約1500万円)の小切手も女性に渡しました。実は、青年は20年間懸命に働き、現在は3つの会社を経営する社長になっていたのです。女性が受け取らないので、青年は自分の感謝の気持ちだからと必死に説得しましたが…

「私はお金をもらうためにあなたを助けたんじゃないわ。人が人を助けることにお金はかからないわ。」

お金に換えられない恩を受けてお金で返そうとした自分…女性の誠実さに比べて恥ずかしい気持ちになった青年は、それでもこの20年間、女性の言葉を胸に頑張れたことの感謝を表したいと思い、それを伝える術を必死に考えました。

そして青年は「山如重恩(恩の重さは山の如し)」と書かれた書を女性に贈りました。どんなに感謝しても感謝しきれない20年分の気持ちを込めた書を女性は気持ちよく受け取ってくれました。青年は「素晴らしい出会いが自分の人生の支えになってくれています。」と語っていますが、女性は…

「自分のおかげで今の彼があるのではありません。ただ、わずかな手助けが人を変えることはあるかもしれません。」

その後も2人の交流は続き、現在では旅行へ一緒に行くなど家族ぐるみで付き合っているそうです。

参考資料:www.fujitv.co.jp/unb/contents/141204_2.html

米国戦艦ミズーリで行われた、日本兵の水葬

「ザマアミロ!」
戦闘中、敵兵の遺体を目にしたら?
きっと冷たい視線を注ぎ、そうつぶやくことでしょう。
敵兵を手厚く葬る? そんなこと、できるでしょうか

ハワイの真珠湾には、太平洋戦争で戦火をくぐりぬけてきた米国の戦艦ミズーリが係留されています。その、ミズーリの右舷艦尾に残っている「カミカゼ・アタック・サイト」(特攻機の攻撃場所)と称する「凹み」。カミカゼ、そうです、日本軍の特攻機が戦艦に体当たりしてつけた傷跡です。

太平洋戦争も末期、昭和20年4月11日午後2時43分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、一機の零式戦闘機が戦艦ミズーリの右舷艦尾に突入しました。

艦上でもれた燃料に火がつき、燃え出した戦闘機を沈火すると、そこには若き日本兵の遺体が残りました。

自分の命を投げ出して任務を全うした勇気ある攻撃に心を打たれたウィリアム・キャラハン艦長は、海軍式の水葬で弔おうと提案します。もちろん、反対の声はありました。「敵兵にそんなことをする必要はない!」 彼らにとっては仲間を殺したかもしれない敵兵です。

しかし、艦長は「敵兵でも死んだら敵ではない。国のために命をささげた勇士である。これは艦長の意志である。丁重に葬ってやりたい」と決意を表明し、星条旗に日の丸を描かせて遺体を包み、翌12日、礼砲5発、全員敬礼をして水葬をとり行ったのです。

この日本兵の身元は長年不明でしたが、「戦艦ミズーリ記念協会」のボランティアの方々の調査で、石野節雄・二等飛行兵曹(当時19歳)であることが判明しました。

戦艦ミズーリで葬送された日本人は石野二等飛行兵曹ただひとり。それは、撃墜されず、また爆発することなく、遺体がきちんとあったからです。

石野二等飛行兵曹の機体は弾薬が装備されていないものでした。
特攻隊の援護か戦果確認任務だったのでしょう。本来ならば、彼は特攻せず帰還して良かったのかもしれません。しかし、仲間が命がけで散っていく姿を目にし、彼は自らの命と機体を武器に、航行中のミズーリを追いかける形で突入したのです。

ウィリアム・キャラハン艦長は兄を日本軍との戦闘で失っています。身内を亡くしたにもかかわらず、日本軍の特攻兵を手厚く弔い、最大限の敬意を表したのは、人を憎まず、戦争という国を守るための戦いに命をささげ挑んだ若き日本兵の精神に感銘をうけたからかもしれません。

水葬から年月がすぎ、1999年からは、戦艦ミズーリはハワイ州の真珠湾で記念艦として保存されています。戦艦ミズーリの右舷艦尾に残っている「カミカゼ・アタック・サイト」にまつわる逸話は、世界から訪れる人達に感銘を与えています。

「平和と友好のしるしとして、艦上で日米の関係者が対面するのは意義深いことである」
と、ミスーリ記念協会のドナルド・ヘス副会長は特攻隊員の家族らを招き、真珠湾に係留中のミズーリの艦上で慰霊祭を行うことを計画しました。

そして、水葬から56年たった平成13年の4月12日、慰霊祭が行われ、特攻隊員たちの遺族とウィリアム・キャラハン艦長の長男や元乗組員たちが対面します。

「キャラハン艦長の人道的な配慮に一言お礼を言いたい」
と、日本側の遺族の一人として出席したおひとり、鎌田淳子さんは、
「弟・隆とともに亡くなった甥の石野節雄が、半世紀以上過ぎてもこのように手厚く葬られていたことを知り、ようやく心の区切りがついた気がします」
と感謝の気持ちを語りました。

悲しみを抱き、乗り越え、平和をせつに望む人たちにとって、国境なんてありません。命の尊さを知り、人間のあたたかな心を忘れない人たちが未来の、世界の平和を築く原動力となっていくことでしょう。

参考文献

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1361430048

ハマの番長と黒羽根少年の約束!

「(少年時代の)夢が実現できてうれしいっ!」
歓声とどろくお立ち台で、あふれる喜びに満面の笑みで語ったのは、横浜DeNAベイスターズ(当時、横浜ベイスターズ)の黒羽根捕手でした。

そんな黒羽根捕手を慈愛のまなざしでやさしくみつめるのは、ハマの番長、三浦大輔。2011年8月14日、三浦に140勝目が記録された熱い試合が甦ります。

少年の夢というのは、純粋で青空を突き抜けるパワーに満ちているでしょう?
ことのはじまりは1998年、京急百貨店で三浦 大輔と鈴木 尚典が招かれて開催されたトークショーで、地元の少年野球チーム「上大岡ハンターズ」の代表として三浦大輔に花束を手渡したのが、当時小学生だった黒羽根少年だったのです。

「大きくてかっこいい、あんなふうになりたいな」 三浦大輔にあこがれていた黒羽根少年は「将来はベイスターズに入って一緒に野球がしたいです」と話し、三浦大輔は「一緒にプロでやろう!」と返事をしました。

「三浦選手とバッテリーを組むんだ!」
黒羽根少年は抱いた夢を現実のものにするために努力に努力を重ねていきます。日大藤沢高校に入り活躍、2005年の高校生ドラフト3巡目で横浜ベイスターズに指名されみごと入団をはたしました。

しかし、プロの世界は競争もはげしいもの。1軍入りにはなかなか届きません。

かたや、2008年、三浦にとってはプロ17年目の年。三浦大輔はFA権を取得。阪神から熱烈なラブコールを受けます。

関西で生まれ育った三浦にとって、子供の頃から憧れていた阪神へのFA移籍はとても魅力ある話でしたし、かなり濃厚で、誰もがエースは横浜を出て阪神入りすると予想を立てていたことでしょう。

阪神からのオファーも力の入ったもので、横浜が提示した3年契約総額10億円よりも、さらに2億円を上乗せした金額を阪神は提示。しかもリーグ2位でこのころ毎年上位争いにくいこんでいる阪神なら優勝の可能性も高いはず!
 
しかし、予想に反し、三浦大輔投手は最下位のチームに残留することを決断したのです。

彼は語ります。
「(奈良・高田商高での)高校時代も打倒天理、打倒智弁学園で甲子園に出たいと思ってやっていた。横浜は今年優勝から一番遠い位置だった。しかし、三浦大輔の原点は何かと考えたら、強いチームを倒して勝つこと。強いチームに勝って優勝したい」

当時7年連続の負け越し球団だった横浜ベイスターズの関係者、そしてファンたちは、この言葉を聞いて涙腺がゆるまないものはいなかったでしょう。

また、男、三浦大輔は、阪神に電話で断りを入れるのではなく、自ら現地に出向いて直接丁寧に挨拶し、誠意を見せています。

そして、迎えた2011年8月11日、黒羽根捕手は一軍に昇格。スグの14日の中日戦で、三浦とはじめてバッテリーを組むことになります。黒羽根は内角へのストレートに右打者へのインスラやスローカーブなども交えて中日打線の狙いを外して7回一死までノーヒットに抑える三浦の好投を引き出し、三浦に140勝目が記録されました。

お立ち台では先に三浦大輔の口から13年前の黒羽根少年とのエピソードが語られ、さらなる感動を呼びました。それ以降、三浦は基本的に黒羽根を指名。ベイスターズ残留の理由のひとつに、少年との約束も入っていたのかもしれませんね。

参考資料:http://matome.naver.jp/odai/2131335991252234801
     http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/sensyu/00n/kurobane_toshiki.htm

意識不明の新婦を待ちつづけた愛の奇跡!

「いつ目が覚めるかもわからんし
健康な女の子はほかにいっぱいいるからもう待たなくていい
別の女性をさがして」

新婦の母は、これまでの感謝の気持ちもこめて、ずっと待ち続ける新郎の尚志さんに話ました。

しかし、彼の答えは「いや、僕は待ちます。彼女のそばに居させてください」でした。

8年前の2007年は、尚志さんと麻衣さんは結婚式を目前にひかえ幸せいっぱい、準備におわれていました。しかし、ある日突然、麻衣さんは自分が何をしていたか思い出せないと話だし、夜、突然叫びだして精神科に入院。そして心肺停止になり、大学病院に救急搬送されました。危険な状態に陥りましたが、人工呼吸器で心臓を動かし、命だけはとりとめました。原因は不明。意識は戻らず、長いこん睡状態がはじまったのです。

尚志さんは麻衣さんの意識が戻ることを願い、信じて待ち続けます。結婚式もキャンセルしようとはせず、延期にしてもらいました。
彼は会社勤めにもかかわらず平日は出勤前の1時間、休みの日は1日に3度、麻衣さんの元へ訪れ、 彼女の手足をマッサージしてほぐしたり、耳からの刺激が脳によいときけば、麻衣さんが好きな曲を流したりするなど献身的に通いつづけます。

その姿を見て、麻衣さんのご両親はせつなくなり、1年たったころに
「もういいよ。ほかの人を探して幸せになって欲しい」と尚志さんに行ったのです。でも、尚志さんはガンとして聞き入れません。尚志さんのご両親にも、「他の子をさがしてください」と話に行ったそうです。

入院して6年たった時、奇跡が起こりました!
麻衣さんが目を開けたのです。

意識を取り戻した当初は、麻衣さんは無表情で、話しかけても返事もなし。目の前にいる男性が婚約者であることも分からない状態。

しかし、尚志さんはかわらず通いました。すると、麻衣さんの表情がやわらぎ、日に日に回復しはじめたのです。

支えてくれた尚志さんやご家族、たくさんの人のあたたかい想いを知り、自分の脚でバージンロードを歩いて、「みんなにここまで元気になった姿をお披露目したい」と麻衣さんは決意します。

5年以上寝たきりでしたから、全身の筋肉は衰え力が入らない状態からのスタート。約2年間、麻衣さんはみんなの想いに応えるために、血のにじむような努力を重ね、過酷なリハビリを頑張りぬきました。

挙式前 ベールダウンのときにお母さんは麻衣さんに一言
「頑張ったね」
この瞬間、8年間の想いがあふれ出て涙がとめどなくほほをつたいました。

父の手に導かれ、母にも差さえられながらゆっくり一歩一歩新郎のもとへ歩く新婦の姿。

尚志さんの、必ず回復をする、麻衣さんの笑顔を見る!と信じきった深い愛が、8年越しの結婚式という奇跡を呼び起こしたのですね。

スマトラ島沖地震を生き延びた少年、プロサッカー選手の道へ!

最大34メートルという巨大な大津波。
2004年12月26日に発生したスマトラ島沖地震はマグニチュード9.1という、史上2番目となる大規模な地震でした。

この大津波にのまれながらも、生き延びた少年がいました。少年の名前はマルトゥニス。奇跡の生還を果たした彼は17歳になり、日本代表のFW田中順也が所属するポルトガル1部リーグ、スポルティング・リスボンと契約を結びました。

そのきっかけとなったのが、23万人以上の命を奪い、甚大な被害をもたらしたスマトラ島沖地震です。

当時、7歳だった少年マルトゥニス君は、地震が発生した時、友達とサッカーを楽しんでいました。ビルよりも高い大津波が多くの人をあっと言う間に飲みこみ、海中へと引きずりこむなか、マルトゥニス君はマングローブにしがみつき必死にこらえました。救出されるまでの21日間、彼はたった一人で沼地の水をすすり、乾燥めんを食べて飢えをしのぎ、奇跡的に生き延びたのです。

救出された時、マルトゥニス君はポルトガル代表10番ルイ・コスタのレプリカユニフォームを身に付けていました。その姿をメディアで目にしたポルトガル国民、そして、サッカーの選手たちはハートを大きく揺さぶられ感動したことでしょう。

また、これを知ったクリスティアーノ・ロナウドも、インドネシアを訪れてマルトゥニス君を激励。彼を支援し、親交を深めていきました。

大津波によって母と2人の兄妹を失ったマルトゥニス君でしたが、悲しみを乗り越え、大好きなサッカーの道を選び、プロのサッカー選手を目指して努力を重ねていきました。

そしてついに、スポルティング・リスボンが、17歳になったマルトゥニス君を招く事を発表! 彼は下部組織U-19チームでプレーするチャンスを手にしたのです。

入団が決まり、スポルティングは7月2日、「彼は一人の男性、そしてサッカー選手になるため、ここで生活し、勉強していくことになる」とコメント。

マルトゥニス君は会見で「僕の夢だったスポルティングに入ることできて嬉しい。チャンスを与えてくれたことに感謝している。ビバ(万歳)、スポルティング!」と喜びに満ち溢れていました。

彼を支援してきたロナウドも、じつは12歳の時にスポルティング・リスボンの下部組織に入団。U-16、U-17、U-18、Bチームを次々と駆け上がり、トップチームに昇格。

憧れのロナウドが育ったスポルティングで、マルトゥニス君にも輝かしいプロへの道を駆け昇って欲しいですね。

参考資料;http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150703-00010001-footballc-socc

武士道をつらぬいた「大空のサムライ」

武士道をつらぬいた「大空のサムライ」

戦地にあって、敵を見かけたら撃ちまくる
そんな光景を数多く見聞きしてきました。実際に、その場に自分がいたとしたら、どれほどの恐怖と緊張感に満ち満ちていることでしょう。人影を見、気配を感じただけでも、自分の死を身近に感じ、敵、味方もわからずにただ、生きるために撃ち出てしまうのが本能というものではないでしょうか。

しかし、「大空のサムライ」と言われる旧日本海軍中尉 坂井三郎は違ったのです。

坂井は「撃墜王」と呼ばれるにふさわしい人物でした。零戦での出動回数は200回を超え、64機の敵機を撃墜した記録を持つほどのスゴ腕の持ち主です。

1942年、太平洋戦争がはじまってすぐの事でした。敵基地を侵攻するために出動していた坂井は、オランダ軍の1機の大型輸送機を見つけました。

日本軍からは「たとえ、民間機といえども、軍の重要人物が載っているかもしれない。敵機が飛行していたならば、捕獲、またはすべて残らず撃墜せよ」との命令がでていました。

坂井はその大型輸送機に近づき、敵軍の重要人物が中にいないか窓からのぞき込みました、すると、太陽の光に照らされて彼の目に飛び込んできたのは、彼の機体におびえ震える女性や子供の姿でした。

彼はその姿を確かめると、「逃がそう」と決断しました。当時の軍の命令は絶対死守すべきものだったことはご存知の通りです。それにそむくと言うことは、決して許されない時代。

しかし、彼は輸送機に乗っていた女性や子供に手を振ると戦機をひるがえして、空の中へと消えて行きました。彼は、立派な日本海軍であり、武士道を心に秘めたサムライだったのです。

基地へ戻り彼は、飛行中に敵と思われるものには出会えなかったと軍へ報告しました。そして、ずっと彼の心の中にとどめ隠しもっていたのです。

しかし、戦後、ある一人のオランダの看護婦が、坂井の著書を偶然目にし、零戦に描かれたマークから坂井があの時、見逃してくれたパイロットだと知りました。彼女は坂井が見逃したあの輸送機に乗っていたひとりだったのです。

看護婦は国際赤十字を通じて坂井を探しあて、戦後50年たち、彼女は坂井に会うことができました。坂井の手を握りしめ、あの時輸送機に乗り合わせたみんなの感謝の気持ちを涙を流しながら伝えたそうです。

参考文献;http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_7_v.html

徳川家康の一番の宝は?

その忠誠ぶりはまるで犬のようだ!といわれた家臣たちがいます。
それは、徳川家康が慈しみ育て上げた三河武士団です。

豊臣秀吉が関白だった頃、諸大名を集めてみずからが持っている豪華絢爛な名宝の数々を自慢しました。そして、その時に家康に対して、どのような宝を持っているかと尋ねました。

家康は答えました。
「私は田舎の生まれですので、珍品といわれるようなものは持っておりません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。私にとって1番の宝は彼らだと言えるでしょう」

そう、家康の1番の自慢の宝とは、家康のためなら命も惜しまない三河武士団だったのです。勇猛果敢で義理がたい、豊臣秀吉にも、ぜひ欲しいものだと言わせしめたすばらしい臣下たち。

しかし、それはもともとのお家柄や土地柄かと思いきや、家康の父や祖父の時代には臣下に裏切られたことも多々あったとか。やはり、それほどまでに忠臣となったのは家康という人物がいたからだったようです。

一向一揆で家康を裏切り寺側についいた夏目次郎左衛門吉信でしたが、四方を家康軍にとり囲まれた時に、家康に命を救われました。その後、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗し、家康が命を落としそうになった際、身代わりになって討ち死んだのは、かつて命を救ってもらった夏目次郎左衛門吉信でした。

武田信玄は家臣から告げられます。
「今の日本に徳川家康と上杉謙信に勝る大将はあるまいと存じます。そのわけは今度の戦で討ち死にした三河軍をみると下郎人夫まで加わっておりました。しかも武田勢に向かって倒れた者はうつ伏せし、徳川勢の方へ倒れた者は仰向けになって、最後の瞬間まで忠義を尽くそうとしたわけです。」
誰ひとり、敵に背を向け逃げ出すものはいなかったことを意味します。

幼少のころに人質となり、幾多の苦難や敗北を経験しながらも乗り越えてきた家康。
井伊直政が大久保忠世の陣中に呼ばれ、三河の武士らが食している芋汁をふるまわれた時のことです。
汁にはぬか味噌のほか味がなく、芋の他、はっぱ、茎などが一緒に煮込んであり、あまりのまずさに井伊直政が苦言を吐くと
「この味は確かにまずい。しかし、我らの配下にはこんなものすら食えない者もいる。なのに、命を賭けて闘ってくれる。そして農民は、芋を作れども主君に差しだし、自分たちの口には入ることもないのだ。
家康様の元で立身するからには労苦を噛みしめ周りを思う心意気を持て。」
と大久保忠世はおだやかに井伊直政を諭したという話があります。

けして驕ることなく、労苦を共にし、臣下を思いやる人柄が、三河武士の結束を固めたのでしょう。

家康は命の火が消えゆく時に、忠義心の強い三河武士たちが殉死しないように辞世の句を残しました。
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
いつでも、どこでも、臣下を思いやる優しい気持が伝わってきませんか?

参考http://www.icgc.or.jp/guarantee/index.phpmode=kiji&key=126