祖国に五輪の花を咲かせたい!本当のおもてなしの心とは…

2020年には56年ぶりに東京でオリンピックが開催されます。

2011年に起きた東日本大震災の際、援助協力してくれた多くの国や団体にお礼と復興の姿を見せるため、2013年の決定から急ピッチで準備が進められています。
招致にはたくさんの人が関わって「チームジャパン」として活躍しました。
国・都・各職員、現役選手まで東京でオリンピックを開催するために力を尽くしたと思います。

前回の東京オリンピックは1964年、それまでのオリンピックはヨーロッパかアメリカでしか開催されたことがありませんでした。しかも日本は第二次世界大戦では敗戦国、戦後復興がようやくできてきたところだったため、立候補しても開催地に選ばれる可能性は限りなくゼロに近かったのです。

まだまだ世界に認めてもらえない…と思い込んでいる日本・日本人に誇りを取り戻させたい!と招致に向けて意欲を燃やしている人がいました。当時の内閣総理大臣 岸信介首相です。

首相は、この招致に向けてある夫婦に協力を依頼しました。
そして、依頼を受けた和田夫妻が五輪招致の実現に尽力してくれたからこそ、欧米開催が通例になっていたオリンピックの歴史を変えたのです。

ただ、和田夫妻はロサンゼルスで青果店を営んでいる日系2世のご夫婦です。そこに首相からの一通の手紙が届くところから始まります。
「JOC準備委員になり、中南米諸国の票獲得に力を尽くしてほしい」

終戦後の1948年のロンドンオリンピックに日本は参加を許されませんでした。
翌年の1949年に、日本の競泳チームが全米水泳選手権に参加を希望するも、アメリカではまだ排日主義が残っており、差別用語で呼ばれている現状だったのです。当然、日本選手団のために宿舎を提供してくれるはずもありません。
その時、宿舎がわりに…と自宅を提供してくれたのが和田夫妻でした。

選手たちの活躍により、日本人が表彰台を独占。
アメリカ人たちの日本人を見る目が変わったと言います。
選手たちは和田夫妻に深く感謝をし、和田さんたち日系人は選手たちのおかげで勇気づけられたのでした。

この時から9年後、選手だった古橋さんはJOC招致準備委員となっており、招致の難しさを痛感していました。
この時のオリンピック招致は、アメリカのデトロイドも立候補しており、IOCの中でも欧米票を獲得できるとして有力視されていました。
日本はアジアの各国の票に期待しても到底かないません。
となれば、欧米以外でたくさんの票を獲得できる地域は…準備委員会が出した答えは中南米諸国でした。
古橋さんたちは、スペイン語も話せてアメリカ在住の和田さんに協力を仰ぐことを決定したのです。

和田さんはアメリカに住んでいるだけで中南米に伝手があるわけではありません。
交渉がスムーズにいく保証もどこにもありません。
和田さんが思い出すのは…
戦中戦後、日系人としてアメリカ社会で虐げられたこと
古橋さんたちの活躍で日本人として誇りをもてたこと

しかし、いまだ多くの日本人が日本人としての誇りを持てずにいる
だから、オリンピックを日本で開催して日本人の誇りを取り戻してほしい

和田さんは奥さんと共に険しい交渉の道を歩むことを決めました。

まずはIOCで2票持っているメキシコに向かいました。
知り合いの農村で委員の人や選手を知っているか尋ね歩くところから始まりました。

和田さんは1から種をまき、メキシコの委員を紹介してもらえるところまでたどり着きましたが、メキシコはアメリカから経済援助を受けており日本を応援するのは厳しいと言われたのです。
「焼け野原だった日本にビルが建ち経済的に復興している。けれども日本人としての自信を取り戻せていない。欧米以外で初めてオリンピックを開催することで本当の意味での復興を果たしたい。そしてメキシコの五輪開催にむけて力を貸したい。一緒に夢を叶えましょう!」その言葉を聞いて、和田さんにブラジルの委員宛ての手紙を託しました。
「メキシコは五輪開催地を日本にすることに応援します。共に応援しましょう。」

同じくブラジルは2票持っている国ですが、ブラジルでは「IOCの総会に出席したくても経済的に参加できない。2,000ドルの資金援助をお願いできますか。」と言われました。ブラジルの日系人会に必死の説得をして、2000ドルの寄付を得ることができました。こうしてブラジルの応援もとりつけることができました。

そして、他の中南米諸国もくまなく回り、賛成への同意を得ることに成功したのです。

結局、準備委員からの依頼があり、開催地決定の会議が行われるミュンヘンまで自費で渡航し、最後のお願いと票固めをした結果…

1964年夏季オリンピックの開催地が日本に決定しました。
10月10日、国立競技場で開会式を見守る和田夫妻は嬉しさと共に、本当にがんばった日本・日本人を見て誇らしく感じたそうです。

そして、和田さんは一緒に夢を叶えるためにメキシコに渡り、五輪招致に向けて尽力しました。
1968年夏季オリンピックはメキシコシティーに決定するところまでやり遂げたのです。
メキシコ大統領からは感謝状が贈られました。

「和田さんは任務からではなく、心から五輪開催を望んでいました。それが多くの人を引きつけたに違いありません。」
メキシコの委員の方が言っています。

何もないところに種まきから始めなくてはいけない。必ず祖国に五輪の花を咲かせたい。

和田さんが信念をもって進んだ道には大きな花がたくさん咲いていました。

2020年の東京オリンピックでもたくさんの人の希望の花となることを祈りたいです。

参考資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/近代オリンピック

tvtopic.goo.ne.jp

どんな仕事もクリエイティブ!~あるレジ打ちスタッフの気づき~

自分がやりたかったことと違う!

そう言って仕事を変えてしまう人はいるかもしれません。
そもそも、自分のやりたいことが社会にそのまま用意されている…ということは幻想ではないでしょうか?

現在たくさんの方が従事している「レジスタッフ」ですが、その仕事を単純作業と捉えるか、たくさんの創造がある仕事と考えるか…これはある女性のお話しです。

彼女は思い返せば何をやっても続けることが苦手でした。
上京して大学に入っても、何かが違う…と嫌になってサークルを転々とするようなところがあったのです。

いよいよ就職の時期になり、彼女なりに吟味してメーカー系企業に勤めることとなりましたが、3カ月で上司と衝突して退職。
「つまらない」「私がやることではない」「私がやりたかったことではない」とその後も就職先を転々とすることとなります。
当然、彼女の職務経歴書は短期での就職と離職がたくさん記載されることとなり、正社員での採用が思うように決まらなくなっていくのでした。

けれども、生活のためにも働かなくてはいけないと感じた彼女は、派遣の登録をすることにしたのですが…
派遣先の社員の人たちとトラブルを次々と起こし辞めることになる…派遣社員としても十分に勤めることができなかったのです。

会社から次に紹介されたのはスーパーの「レジ打ちスタッフ」でした。
この当時は、現在のように商品をかざせば代金が入力されるシステムはまだなく、ひとつずつ手打ちしなくてはなりません。
技能としてはタイピングの技術も必要です。

勤め始めて1週間もしないうちに、彼女は「こんな単純作業がやりたいわけじゃない!」と思い始めていました。
ちょうど、娘の気持ちがわかっているかのように母親から連絡があり、「無理をしないで帰っておいで」と言ってくれたのです。

せっかく上京したのだから…と思っていたけれど、ここまでうまくいかない状況が続くと、さすがに彼女も母親の優しさに頼ろうという気持ちになりました。
そして辞表を書き、部屋の整理を始めると、一冊のノートを見つけたのです。それは彼女の小さい頃の日記でした。日記にはしっかりと「将来はピアニストになりたい」と書かれていました。

思い返せば…自分が唯一続けられたもの、それはピアノの練習だけだった…それでも結局やめてしまって、あの頃から何も変わってなくて、嫌だから逃げ出そうとし続けているんだ…
そして彼女は泣きながら母親に「もう少しがんばる」と告げたのでした。

「後少しだけ、2・3日でもいいからがんばってみよう」と心に決め、翌日からスーパーに出勤し始めました。ピアノのことを思い出したからでしょうか、「レジ」ではなく、ピアノを弾くような気持ちでレジを打ったらどうだろう、キーボードの位置だけしっかり覚えれば打つも弾くもそんなに変わらない、自分流のレジ打ちをすればいいんじゃないか!と思っている自分がいました。
レジ打ちを彼女流に極めてみることにしたのです。

レジから顔をあげて打てるようになると様々なお客様の顔が目に入りました。
今まで気にもしていなかったお客様の様子が目に見えるようになったのです。

いつも特売日にやってくるおばあさんが、珍しく立派なタイをかごに入れてレジにやってきました。
彼女は不思議に思って、思わずおばあさんに話しかけたのです。
「今日は何かいいことありましたか?」
「孫が水泳で賞をとったから、お祝い。」
「おめでとうございます。」
そんなことをきっかけに、他のお客様とも短いながらもやりとりをするようになっていきました。

ある特売日、本当に忙しくて彼女は自分の仕事に集中していました。そんな中、店長が店内放送でお客様に呼びかけています。
「本日は込み合いまして誠に申し訳ありません。どうぞあいているレジにお回りください。」
スタッフが増員された…と思いながら必死にレジ打ちをしていると、再度同じ内容のアナウンスがありました。また同じアナウンス…
彼女はおかしいなと思い周りを見てみると、何とお客様は彼女のレジにしか並んでいなかったのです。

店長に向かってあるお客様が
「ここへ買い物だけにきてるんじゃなくて、彼女とおしゃべりもしたいんだよ。だからこのレジじゃないと嫌なんだ。」
「そうそう、特売なんてどのスーパーでもやってるけど、彼女はこのスーパーにしかいないから、このレジに並ばせて」

彼女が泣き崩れたのは言うまでもありません。
「つまらない」「だれがやってもおなじ」仕事と見えても、そこには働く人それぞれの「創造性」が必ずあるはずです。そして、それを受け取る人が必ず存在していることも事実なのです。
だからどんな仕事も素晴らしい!

あなたのクリエイティブが誰かに伝わりますように…。

参考資料
www.forestpub.co.jp/namida/suisen.html
manatakebooks.seesaa.net/article/207091709.html

認知症の人が暴れるのは、それなりの意味があるから

「介護」と聞くと、誰もが大変だという言葉を口に出します。
「あんなにしっかりとしていた人が、こんな風になってしまうなんて」
中には、子どもの顔さえ忘れてしまう方もいらっしゃいます。

近所のおばあちゃんは、昔、踊りのお師匠さんで、粋でしっかりした女性でした。しかし、急に認知症になってしまい、家族が目をはなしたすきに、家を脱出して徘徊するようになってしまったのです。

家とは違う方向へどんどん歩いて行くおばあちゃんを見かけたので、声をかけると
「まりこ(娘さんの名前)がいないので、八百屋へ行こうと思ったのに、ぜんぜん着かなくて困っているのだけど」と話してくれました。たしかに、おばあちゃんの家から50メートルの所に八百屋があります。しかし、方向は全く違っていて、かなり離れていました。

「私も行くからいっしょに行きましょう」と声をかけ、一緒に歩きだすと「ご親切に、ありがとうね。あなたはまりこを知っているの?」と質問されギクッとしました。知っているもなにも、昔からご近所で、おばあちゃんにもかわいがってもらっていましたから、私なりに、やはりショックを受けましたね。

他人の私でもショックなのですから、ご家族だったら、その衝撃は耐えられないほどのものでしょう。

八百屋には、まりこさんもいなくて、家まで送り届けたのですが、おばあちゃんは、また玄関でうろうろしだしました。「雪が降ってきた。あの子はどこにいるんだろう?」と心配するおばあちゃん。
「もうすぐまりこさん、帰って来るって言ったから、ここで待ててあげてね。じゃないとすれ違っちゃうかもしれないから」と説得して、私は帰りました。

そんな経験がきっかけで、私は認知症についての講習会に参加しました。
いつかは親も認知症になるかもしれない。そして、将来的には自分だってならないとは限らない。誰もが身近に感じている問題ですよね

アルツハイマーと認知症の違い等の話が進む中で、介護の現場で働いている所長さんのお話がとても印象的でした。

施設で過ごされている患者さんが、突然、外へ出ようとしはじめたお話です。「外出はキケンだからダメですよ」といくら止めても聞いてはくれず、だんだん暴れ始めてしまいました。

そういう時、所長さんはじっと耳を澄ませてその患者さんに寄り添うそうです。なぜ、外に出たいと言い出したのか。どうして暴れているのかを探るために。

すると、「○○がかわいそう。」「きっと待っている」「このままじゃ濡れてしまう」という言葉が聞こえてきたそうです。
そうです。その患者さんは、急に降りだした雨に気付き、我が子が濡れて、どこかで雨宿りをして、自分を待っている!と思い、暴れていたのです。

患者さんの実年齢は80代ですが、きっと30歳くらいの自分に戻っていたのでしょう。子どもはまだ小さく、早く子どもの所へ行ってあげたい!という子どもを思う気持ちでいっぱいになり、外出を制止しようとするスタッフが邪魔でしょうがなく、あせりと怒りで暴れていたのです。

所長さんは、「患者さんが暴れたり、怒ったりするのには理由があるのです。そっと耳を傾けてあげてください。人としての尊厳を大事にしてあげて下さい。」と語っていらっしゃいました。

今、医療や介護の現場で、フランスのジネスト・マレスコッティ研究所が開発した「ユマニチュード」が注目されています。

おむつを替えるのに、30分以上格闘していた認知症高齢者の方に、見つめて・触れて・語りかける、このユマニチュードを用いておむつ交換をおこなったところ、2分半でできてしまったという事例もありました。
「認知症の方が相手でも、『あなたは人間』で『そこに存在している』と伝えるのが、ユマニチュードの哲学だそうです。

こう話すのは簡単なこと。実際に介護の現場で頑張っている方にとっては、スグに切り替えることは困難なことかもしれません。しかし、人の想いは、良いにつけ、悪いにつけ、認知症の方にも以心伝心で届くのですね。

「認知症の方の困った行動には、それなりの理由がある」
理由があるのならば、その理由をひも解くことで、光明が差してくるとを信じたいです。

参考資料:http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3464_all.html

クラス全員サングラス姿で参加した合唱祭のワケ

高校3年生、みんなで歌う、思い出に残る合唱祭。
その合唱祭に、メンバー全員がサングラスをかけて参加したクラスがありました。沖縄県の宮古島にある、県立宮古高校、3年生のひとクラスです。

そのいでたちに一瞬会場はざわつきましたが、スグにおさまりました。サングラスをみんなでかけたのは、ただのパフォーマンスではありません。れっきとしたワケがありました。クラスの中の一人の女の子を思ってなされた事だったのです。

その女の子は、2011年、中学2年生の時に子宮頸がんワクチンをうけました。ワクチン接種後から、体調がどんどんおかしくなっていきました。呼吸困難、手足のしびれ・・・。入院したこともありますし、体調不良で登校もままなりません。そして、副反応で光に敏感になり、常にサングラスを必要とした生活も送っていました。

高校3年生の思い出に残る合唱祭も、皆に迷惑をかけてしまうからと、はじめは、彼女は合唱祭への参加を諦めていました。そんな彼女をはげまし、同級生は合唱祭の練習に誘いだします。しかし、参加するとなれば、彼女はサングラス姿で出なければなりません。そんな彼女のはずかしく悲しい気持ちを思いやったクラスの一人が声を上げました。
「みんなでサングラスをかけて出よう!」

「みんなの気持ちはうれしいけれど、サングラスを持っていない子に買わせることになってしまうし、そんな迷惑はかけられない」と、彼女は最初、辞退したそうです。しかし、クラスのみんなは、全員サングラス姿での参加に大賛成。ちょうど合唱に選んだ曲のイメージにも合うからと、みんなの意見が一つにまとまりました。

さっそく担任の先生に申し出ると、先生も賛成してくれました。皆がそういう優しい気持ちになってくれたこと、提案してくれたことがうれしくて、先生もみんな揃っての合唱祭参加の思い出をつくる為に行動を開始。合唱祭に関係する方達に説明して回り、周りも反対することなく同意してくれたのです。

そして迎えた合唱祭本番。
クラス全員がサングラス姿で登壇。歌ったのは尾崎豊の「15の夜」です。皆のそろった生命力あふれる歌声、指揮者の男の子がした尾崎豊のもの真似パフォーマンスも大盛り上がり。会場では大拍手がわきおこりました。

皆の気持が一つになった合唱祭は大成功。
ワクチンの副反応で、めまい、痛みなどいろいろな症状に襲われながらも、笑顔で頑張りぬいた女の子。合唱祭が終わった時、クラスメイトから
「ありがとう、おかげで一つになれた。最高のクラスになったね」
と声をかけられました。
「この一言で、大変だったことが全部チャラになった」
そう女の子は語ったそうです。

彼女は11月に県外の病院に入院することに。次の目標は「クラス全員でいっしょに卒業する」こと。新たな目標を胸に、彼女は前に向かって進んでいます。

参考資料:http://withnews.jp/article/f0151021000qq000000000000000W00o0401qq000012641A

人生を支えてくれる150通のラブレターと心の宝物

宮崎県で小児科医として100歳を目前にしても活躍されている貴島テル子さん。地元ではみんなの優しいお母さんとして多くの方から愛されています。おばあちゃん、お母さん、お孫さん…と親子で通われている方も多いそうです。

そんな貴島さんですが、ご自身にはお子さんがいらっしゃいません。その分、多くの子供の成長をみていこうと思い小児科医を選びました。
医師になろうと決めたのは生涯の伴侶であるご主人を戦争で亡くされてから、33歳で医師となりました。その後、50代で開業されて現在に至ります。普段の穏やかな笑顔からは想像はつきませんが、最愛のご主人が亡くなり、人生を絶望していました。

テル子さんの友人の兄であった政明さんは、海軍のパイロットをしていました。お父さんが外交官であり、海外生活を経験しているテル子さんは、はやくから自立した女性になりたいとの希望を持っていました。そして、この時代では珍しく政明さんはそんなテル子さんの希望を応援してくれていました。
二人は心を通わせるようになり、海外生活などで離れることがあっても気持ちがかわることはありませんでした。そのまま自然な流れで結婚の約束をしていたのですが、長引く日中戦争や第二次世界大戦が始まり、外交官であるお父さんは今後も戦争が激しく厳しくなると感じていたため、海軍の軍人である政明さんとの結婚を反対しました。それでも二人の気持ちはゆるぎないものでした。そしてとうとう昭和16年に結婚しました。

新婚生活…と言っても、戦争の最中です。政明さんは数日で隊に戻り、休暇と言ってもまたすぐに戻っていくという様子で新居を構える余裕もなくテル子さんは政明さんの実家で過ごしていました。この頃政明さんとテル子さんが交わした手紙は二人の愛があふれていました。

「本当の意味での清純な愛という言葉を、ぼくはあなたに心から贈ります」

昭和16年12月に真珠湾攻撃から太平洋戦争がはじまります。
そしてこの後、政明さんからの手紙は
「軍人として立派に死ねるように願ってほしい」
というような死を覚悟した内容ばかりになっていきます。手紙の検閲があったとしても、今までとは全く違う戦争や死についてばかりの内容…戦争が政明さんを変えてしまったのではないだろうか…テル子さんは不安な気持ちになっていきました。
そのうち、いくら手紙を出しても返事が全くないままの状況が続きます。

開戦の翌年、テル子さんに小包が届きます。今まで政明さんが出せなかった手紙と戦死通知でした。

結婚後1年足らず、共に過ごせたのは数十日…。最愛の人を亡くしたテル子さんの気持ちは想像を絶するものがあったと思います。
日々泣き暮らし、絶望の淵にあったテル子さんを救ってくれたのは、やはりご主人からの愛のあふれる150通もの手紙でした。
戦死後に送られてきた手紙の多くは軍人としての死の覚悟についてばかりでしたが、その中にはテル子さんに宛てた遺書がありました。

「最愛のテル子へ 余亡きあとしかるべく身を処されよ 良縁あれば遠慮するなかれ テル子の将来の幸福を祈りてやまず」

自分のことを最後まで心配してくれていた政明さん。テル子さんは政明さんと語り合った夢、そして応援してくれていた夢を思い出したのです。政明さんの想いに報いるためにも自立した女性を目指すことを心に決めました。

政明さんのお父さんは開業医であったため、政明さんの代わりに医師になるべくテル子さんは猛勉強をして28歳にして女子医専に合格し、33歳で医師となることができました。そして貴島の家に戻り、54歳で開業をして地元に根付いた医療を小児科医として行っています。現在でもテル子さんは政明さんと同じ「貴島」姓を守っています。

テル子さんは戦後、政明さんの戦友が主催する戦死者慰霊祭に度々参加していました。そこで政明さんと同じ部隊に所属していた男性と出会い、政明さんについて詳しく聞くことができました。政明さんはテル子さんが送ったテル子人形を肌身離さず持っていたそうです。もちろん最後の出撃の時も…。きっと最期は最愛の人が送ってくれた人形と共に逝ったに違いありません。

政明さんは戦争で人が変わってしまったのではなく、それまで以上にテル子さんを愛してくれていたのです。テル子さんのわずかな不安は取り除かれました。

今でも変わらずご主人を愛しているというテル子さん、心に宝物が持っていればきっと自分を支えてくれる…と伝えてくれています。もちろん政明さんからの手紙は宝物だけれども、心に宿る宝物はテル子さんを想いながら手紙を書いている政明さんの姿かもしれません。

参考資料
http://femininse.me/senses/45/
75年目のラブレター

毎日届く、クスッと笑える希望のハガキ

キャハハハハーッ!
あまりにも愉快なはしゃぎ声に、ふとふりむくと、なんとも奇妙な格好で自転車にまたがる人がスーッっと通り過ぎた。

ビニールの買い物袋の、手に持つ部分をそれぞれ両耳にひっかけ、風を切って走りぬけてゆく。ビニールの買い物袋は風にはらんで、まるでアドバルーンのように頭の後ろで膨らんでいる。キャハハハハーッ!その笑い声につられてコチラも笑ってしまう。

他にも、ゴミ袋を着た子供を自転車の後ろに乗せている人。大きいビニール製のゴミ袋の3か所に切り込みが入っていて、頭と両腕が出るように子供にスッポリ着せて簡易レインコートにしていた。

そんな日常で見たクスッと笑える出来事をハガキに書いて、毎日雨の日も風の日も一日もかかさず認知症とウツ病を患う遠方の母に送っていた脇谷みどりさん。

送ったハガキは14年間で5000通を超えてました。

平成8年、大分に住んでいた父親から電話が入りました。
「家に帰ってきてほしい!」
突然の申し出に脇谷さんはビックリ。実は、この時、お母さんは重いウツ病を発症していたのです。突然髪の毛を切りだし、火をつけたり、「死にたい」と繰り返す母。パニック生涯、過呼吸、意識混濁・・・。お父さんも疲れ果てて困惑していたのです。

スグにでも助けに行っててあげたい!
しかし、脇谷さんには、重度の障害を持つ、寝たきりの娘がいます。

生まれつきの脳性小児マヒ。どうして自分の子がこんなことに・・・。お医者さんからは「5歳になって自分で座ることが出来たら奇跡だ」といわれました。

しかし、5歳になっても座るどころか首もすわらない。
近所に住む、同じ障害の子供を持つ先輩ママに言われたことは、「あんたやで、あんたが変わらなダメなんや」 
自分の何がいけないの? どうしたらかのこは治るの?

ある時、娘のかのこさんを車に乗せて走っていた脇谷さんは、田んぼに囲まれた道を走る赤い車を見てかのこさんに語りかけました。
「きっと、あの車には幸せな家族がのっているんだろうね。私もかのこを産むまでは幸せだったのに」
自分で吐いた言葉にハッとし、電撃が走ります。
「わかった!かのこ。私だ、私やったんや。お母ちゃん、これから変わるから!」

その時脇谷さんがわかったこと、それは、「かのこさんの病気が治らなくては幸せになれない」と思いこんでいたことでした。

もし、この子が治らなくても、世界一幸せな娘にしたい。そして家族ひとりひとりが輝いていける、世界一幸せな家族になろう!

それまでは、かのこさんが入院すると、子供は病室に入れない病院の規則があったので、小さいころも兄はひとりぼっちでお留守番。なかなか手をかけてあげられない状態でした。でも、お兄さんはみずから3歳で泣くことを辞めたと言います。泣いてもおかんは戻ってこない。大変なんや。自分がしっかりしなくては!そう思っていたそうです。

脇谷さんは、家族に支えられていた事に気付きます。感謝の想いが沸き上がってきました。脇谷さんは、もともと目指していた童話作家の道へ進もうと決意します。24時間介護でしたから、かのこさんの隣にあるアイロン台を机代わりに、執筆活動を始めました。

そんな時に、突然の父親からの電話。帰ってきてほしいと言われても、かのこさんを連れて大分にはとうていいけません。

何か自分にできる事はないだろうか? そこで、脇谷さんは、クスッと笑える出来事をハガキに書いて、毎日大分のお母さんへ送ることにしました。娘から届くハガキを目にし、徐々に大分のお母さんに変化が起こります。ハガキを出しつづけて4年目、大分のお母さんから電話がきました。

「お医者さんが、病院にもう来なくてもいいですよって言ったの」
そうです、いつの間にか、うつ病も認知症も改善されていたのです。

77歳になるお母さんはほほ笑みながら話します。
「おもしろい絵手紙を毎日読むうちに、マイナスの事を考えなくなれたの」

脇谷さんは「とべパクチビクロ」という絵本を出しました。これに負けじと、お母さんまで本を出すまでに!

かのこさんのお兄さんは、今は障害者児童の教育に携わっています。「かのこさんがいてくれたから、自分の道を開くことができました。前世でも、今世でも、そして来世もきっと一緒に切磋琢磨していく縁深き戦友なのだと思います。」とかのこさんへのあたたかい想いを語っています。

一人一人が輝き、前に向かって進めるのは、かのこさんがいたからであり、お互いを思いやる気持ちが力になったからなのですね、きっと。

参考資料:http://www.chugainippoh.co.jp/interviews/konomichi/20120605.html
書籍「希望のスイッチは、くすっ うつ病の母に笑顔がもどった奇跡のはがき」脇谷みどり著

絶望を希望に変えた少年と犬の出会い

ヨーロッパ、特にイギリスでは広く知られている「アナトリアン シェパード ドック」という大型犬は、飼主に忠実で見知らぬものへの警戒心は非常に強いことで知られています。

その生後半年ほどのアナトリアンシェパードが、電車にひかれ重傷を負っている…と鉄道会社から連絡をうけて動物病院に運ばれてきました。瀕死の重傷を負っていましたが、努力の甲斐があって一命は取り留めることができました。ですが、損傷が激しかった左の後ろ足は残念ながら切断するしかありませんでした。
獣医師たちはそもそも不思議な気持ちだったようです。アナトリアンシェパードは警戒心が強く慎重な性格のはずなのに、わざわざ電車に近づくだろうか…治療の過程や後に判明したようですが、どうやら飼主に虐待をうけており、わざわざ線路にくくりつけられていなければ、この犬がこんなことにはならないだろう、ということでした。

大型犬が足を失うと、成犬になった時に体重を支えられず、寝たきりになってしまう可能性が高いのだそうです。となると、この犬を引き取りたいといってくれる人が現れる可能性はかなり低くなってしまいます。引き取り手がなければ殺処分となってしまいます。そこで保護団体は何とかこの犬を救おうと「ハチ」という名前をつけ様々な方法で飼主の募集を始めました。

募集をかけて半年…あるドックトレーナーの男性が飼主募集の記事を見かけました。
既にこの男性の家は犬を飼っていて、そして小学生の男の子、オーウェン君がいました。

オーウェン君は、全身の筋肉が常に硬直してしまう「シュヴァルツ・ヤンペル症候群」という先天性の難病でした。世界でも100例ほどしか報告されておらず、治療法も解明されていない病気です。

小学校にあがったオーウェン君は、自分自身と周囲の違いに悩んでいました。特にクラスの友達に「オーウェンはどうしていつも変な顔をしているの?」とからかわれることは何より嫌だったそうです。病気により顔の筋肉も硬直していて、目をあけるためには口を尖らせたり…と健常者から見ればおかしいかもしれませんが、オーウェン君はそれでも学校でがんばっていたのです。

人と違う自分を見られたくない…と他人の視線をさけるようにオーウェン君は外出することを嫌がるようになり、学校も休むようになり、どうせ病気はよくならないから…と薬を飲まなくなってしまいました。

男性は息子やすでに自宅にいる犬について考えながらも、「ハチ」に強く引きつけられていました。妻と相談し一度ハチに会いに行くことにしました。ハチは虐待がもとで人間不信に陥っており、本当に飼うことができるかどうか…とりあえず2週間預かって試してみることにしました。

ハチを自宅に迎えた日、ハチは警戒して家の中に入ろうとしなかったので、まずリードを離して家の中を自由に探索できるようにしたところ…ハチは全く知らない家なのに一目散にオーウェン君の部屋へ走っていきました。慌てて両親がオーウェン君の部屋へ行くと、オーウェン君の膝に頭をのせて甘えてくつろいでいるハチの姿がありました。

ハチはその日から片時もオーウェン君のそばを離れず寄り添っています。そして、そのハチの存在がオーウェン君の心に変化をもたらすことになります。ハチは足のために薬の混じった食事をとっています。飼主に虐待され、片足も失くし、それでも前向きに生きようとしているハチの姿を見てオーウェン君は再び薬を飲み始めました。

オーウェン君は失いかけていた優しい笑顔をハチと共に取り戻しつつありました。そんなある日、彼はオーウェン君に語りかけました。
「ハチは虐待をうけ、足を失うほどの怪我をして人間不信に陥るのは当然だ。そんなハチが自らオーウェン君と友達になろうとしてくれたのは、どれだけの勇気がいることだっただろう。」
ハチは勇気を出して自分を信じてくれている。自分はどうだろう…他人の視線を避け、勇気を持てず、後一歩を踏み出すことができない。

「ハチを連れて散歩にいきたい」
オーウェン君は自分の意思で外に出ることを決意しました。
オーウェン君ではなく、ハチに引きつけられてたくさんの人が集まりました。三本足のハチに子供たちが「かわいそう」と言うと、オーウェン君は自信をもってきっぱりとハチがどんなにすごい犬か話し出しました。

ある子供のお母さんがオーウェン君に言いました。
「そんな犬をしっかりと散歩させているあなたもすごいわよ。偉いわね。」

他人と関わりたくない、目も合わせられない…そんなオーウェン君は、ハチと共に人と関わる喜びを知ることができました。
それからオーウェン君は、ハチと様々なところへ一緒に行き、いろいろな人に大好きなハチの話しをすることが楽しみになりました。

そして、たくさんの人が集まるドックショーに出場するようになり、世界最大のドックショーである「クラフト」の犬と人間の友情に与えられる賞を見事受賞しました。

その後、オーウェン君は毎日学校へ通うようになり、ハチとの友情も変わらず続いています。

「ハチと一緒に世界中のいろんな所へ行ってみたい」
生きることに絶望感しかなかった少年が、生きることを諦めさせられそうになっていた犬と共に、未来を夢見ることができるようになったのです。過去のオーウェン君の姿はもうどこにもありません。

参考資料
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/140501_2.html
www.koinuno-heya.com

一本の電話がルールを変え、少女を救った

自分の気持ちや行動がうまく伝えられなかった時、悲しい気持ちになるのはまだ人というものを信じているからかもしれません。

おそらく一本の電話がなければ、少女は大人や学校を信じられなくなってしまっただろうと思います。

まだまだ朝は冷え込む時期です。今年度の学年末テストを控えて、少女はちょっと緊張しながら学校へ向かっていました。
私立の進学校に通っている少女は、まじめな性格もあり、ひとつひとつのテストや課題に一生懸命取り組んでいます。特に今回は1年で1番重要な試験でもあるので準備を怠りませんでした。

通学途中の道端で、少女の前に1人のおばあさんが倒れてうずくまっていました。病気か事故か…と思いながら少女が近づいていくと、おばあさんの傍らには大きな荷物が落ちていました。どうやらバランスを崩して荷物ごと倒れてしまったようです。余りの痛みに動けない様子のおばあさんを介抱しながら、携帯電話で救急車を呼び、一緒に待っていました。

その間、試験に遅刻してしまう可能性が高いため、学校へ連絡し現状と遅刻の報告を行いました。
学校へも連絡がついたため、おばあさんに付き添っていることにしました。

そして救急車が到着後、事情説明も兼ねて一緒に救急車へ乗り込むこととしました。
おばあさんは命に別状はなく、足を捻挫しているだけで済みました。おばあさんはお礼と学校へ遅刻してしまったことへの謝罪がありましたが、すっかり落ち着いたおばあさんを見て、少女は一安心して笑顔で病院を後にしました。

おばあさんが無事で本当に良かった…清々しい気持ちで学校へ到着すると、何と少女は学年末テストを受けることができないと学校側から言われてしまったのです。

「きちんと試験開始前に事情も説明して、遅刻の連絡を入れているのに、なぜ試験を受けることができないのですか?」

彼女は先生に向かって問いかけました。
先生は何をいまさら…というように理由を説明します。

・どんな理由があれ、自分が判断したのだから自分都合の遅刻に追試があるわけがない
・全く知らない、親族でもない人が怪我をしたからということで、あなたが試験を受けられないという理由にはならない
・このことを許可したら、世の中全ての人が怪我をしただけで追試をしなくてはいけなくなる

少女は頭が真っ白になりました。
ほめられることを期待していたわけではないけれども、倒れている人を助けることは学校ではおかしい行動だったのだろうか…。

しかし、少女はもう一度先生へ疑問をぶつけます。

「では、倒れているおばあさんを放っておけばよかったのでしょうか。」

・救急車を呼び、あなたは学校へ向かえばよかった
・救急へ同乗しなくてはいけないような状況、怪我だったのだろうか

どれだけ少女が訴えても、彼女が言っていることは理由にならないそうです。先生の理屈はわかります。でも目の前で倒れた人を放っておけない…少女は悔しさで泣きそうになりながら自分の気持ちを伝えますが、遂には諦めて何も言えなくなってしまいました。

その後、帰宅させられました。自分がどんなに説明しても先生を納得させることはできない…少女の気持ちは沈みます。

その日の午後、自宅へ学校から電話がかかってきて、今から特別に学年末テストの追試を行うのですぐに学校へ来るように、とのことでした。
急なことで何が何だかわからないまま、しかし大事なテストを受けることができる喜びに包まれながら学校へ向かいました。
特別に別室が設けられて、少女のために試験が行われました。
少女は何とか無事に学年末テストを受けることができ、準備の甲斐もありできも悪くなかったと思います。

そして、何より少女が嬉しかったのは…

おばあさんが学校へ連絡してくれたおかげで追試が行われることになったそうです。
実はおばあさんはこの学校出身で、学校生活や試験なども厳しいことは知っていた上で、少女に助けられたこと・人として素晴らしい行動をしてくれた少女を認めてあげてほしいこと・勉強やルールも大事だけれども、人生にはこのようなことが大事だと先生たちもわかっているであろうこと…何度も何度も電話口でお願いをしてくれたそうです。泣いてしまいそうになるほど嬉しくて、感謝しました。

自分のしたことは間違っていなかった!

今するべきことをしたはずだったのに、学校や先生の理屈では違っていたことに一時は打ちのめされていた少女は、自分の行動が間違っていなかったことが証明されたように思えました。

大人になっていく過程で、子供たちはルールを知り、守れるようになる練習をしています。
ただ、今ここにあるルールが本当に正しいのか…
もしかしたら子供たち自身がその経験で感じている矛盾の方が正しいのではないのか…
そして大人はその矛盾をバカにせず耳を傾ければもっといいルールができるのでは…

大人が信じてもらえるかどうかは、子供たちの言葉をしっかり受け止められるか…ではないでしょうか。

参考資料
http://cadot.jp/impression/5305.html/4

みんなの願いが叶った、友情の階段

「絆」…東日本大震災以後、復興への希望を込めてこの言葉がボランティア・支援活動に使われてきました。本当に困っている人を支援するため、手に手を取り合って明日を拓いていくにふさわしい言葉です。

とある小学校で、深い友情の「絆」で結ばれた子供たちがいました。

彼女は産まれて間もなく「脳室周囲白質軟化症」という脳性まひの一種にかかり、手足や首に力が入らず歩くことができませんでした。そして小学校へ入学する時、両親は障害を持っていることも考えつつも公立の小学校へ入れることとしました。普通学級と支援学級を往復しながら学校生活をスタートさせたのです。1学年15人ほどの小さな学校の中で、彼女は楽しそうに通っていると思えました。
実際、登校時に車いすが用意されていたり、移動の時に車いすを運んだりなど同級生たちも自然と彼女を助け、一緒にいることが普通になっていたのです。1・2年生が過ぎ、みんなが3年生になる頃、2階に教室が移る事になったため、彼女は授業を支援学級で受けることになり、ほとんどをそこで過ごすことになりました。それでも休み時間など2階から1階に友達が降りてきて楽しそうに遊んでいたのです。

そのころ、彼女が書いた絵がコンクールで入選し、学校の集会で感想をこめた作文を読むことになりました。

同級生、学校の先生、両親…「友達と遊ぶのが楽しいです」という彼女の作文を微笑ましく聞いていたのですが、彼女の作文を読む声が急に途絶えました。

「ひとりだとさびしいです」。
涙ながらに彼女は言いました。

「え?」というのが同級生たちの本音のようでした。むしろ彼女がみんなともっと一緒に遊んだり、活動したりしたいと思っているとは感じていなかったそうです。

当時、彼らの小学校では、学校近くの河原での川遊びがブームでした。学校側も教育の一環として川遊びを取り入れていたのです。もちろん、彼女も河原に一緒に行っていました。しかし、川へは3mほどの崖を、ロープを伝って降りなくてはなりません。彼女は崖の上からみんなを見守っています。休み時間や合同授業の時同様、みんなが自然に彼女の車いすを押していましたし、川からあがってはとれたものを見せていました。

小学校3年生、自分の身体に障害があることはわかっていても、本当はみんなと一緒に授業を受けたい・崖を降りて川で遊びたい、そう思って当然です。しかし、彼女はそれを表に出さず一人で孤独を募らせていたのです。

彼女の本心を知った同級生たちは、彼女の願いを叶えたいと先生も含めて相談をしました。手足に力が入らない彼女をおんぶして崖を降りることは大人でも難しいことでした。先生と同級生たちの姿を見て、校長先生はその想いを何とか実現させてあげたいと思いながら河原を歩いていると、崖のはしに川に降りられるような階段をつくれないか思いつきました。早速地域の土木振興局へ相談に行き、現状と生徒たちの想いを伝えることにしました。

同級生たちも自分たちができることを…と、ひとりひとり階段を設置してほしい理由と希望を書いた手紙を校長先生に託しました。

「彼女は我慢していますが、私たちも一緒に川に入りたいです」
「彼女は一度も川に入った事がありません。残り3年間で一回でもいいので入りたいです」

市との予算の兼ね合いもありますが、前向きに検討してもらえる返事をもらい、実際土木局の担当の人が川や崖の調査に入りました。
みんなもうすぐ階段ができると、そのために彼女のために何かできないか…夏休みを使ってある物を集め始めました。先生の許しをもらい、2学期の総合学習の時間を使い完成させました。約150個のペットボトルで作られた「どんどん行け ゆうきゴー」と名付けられた筏(いかだ)です。彼女がゆったり乗れるように背もたれ・肘かけがついているので、運動会の時なども活躍したのです。

しかし…10か月経っても、年度が変わっても工事は始まりません。工事担当の課長が異動になっていたのです。
みんなは5年生になっていました。手紙を書いて約2年、みんなの夢を託した「ゆうきゴー」はその出番を待ち続けています。

ある日、県から学校へ工事の着工をすると連絡が入りました。みんなはやっと筏をもって川へ行けると喜びました。
白紙となっていた工事が着工できることになったのは、子供たちからの夢を託した手紙でした。偶然後任の課長が発見し、予算の確保をして実現にこぎつけたのです。

いよいよ工事が始まりました。工事担当者は、川・河原・崖は自然そのままで、階段をつくる以前に道路もつくらないと通ることができないことに気づきました。ただ、そうすればこの工事は赤字になります。素直にやり直せば工事は一旦中断してしまいます。彼女たちの6年生の夏は間もなくやってくるのです。工事担当者は赤字覚悟で、自分も自分の子供たちもお世話になった小学校へ恩返しをすることを決意しました。

そして、いよいよ待ち焦がれた階段が完成しました。
「川へ入るのは初めてです。ワクワクします。」
そう挨拶をしてみんなで筏を持って川に入りました。
「川の水がこんなに冷たいとは知らなかった!」
彼女だけでなく同級生の願いが叶った瞬間です。

あの時、彼女が自分の気持ちを伝えてなかったらどうだったでしょう。
同級生たちは、彼女がいなかったらわからなかったことがたくさんあって、やってみないとわからない、みんなで感動することができた…と言っています。

「自分自身と友達の一生の宝物です」
彼女は笑顔でそう振り返る先には、友達をもつことの大切さを共に感じた仲間がいます。
そこには確かな「絆」があります。

参考資料
www.youtube.com/watch?v=CovmiUCL8Fs

25年前に自分を捨てた父との衝撃的な出会いと奇跡

「父に捨てられた」
悲しい気持ちで小さな胸を押しつぶされそうになったのは、ダイアナ キム(Diana Kim)さんが5歳の時のことでした。
写真スタジオを営んでいたお父さんはダイアナさんが5歳の時に母と離婚し、家から出ていってしまいました。それからは消息が絶たれ、父親とは一切音信不通の状態。
祖母からのちに、「父は重度の精神疾患にみまわれ、苦しみ、家族のもとから姿を消したのだ」とダイアナさんは聞かされました。

父母が離婚してからの人生は、地を這うようなドン底の日々が続きます。手をひかれ、最初に預けられたのは友人の家。住む所もありませんから、親戚や友人の家に寝泊まりさせてもらったり、どこにも泊まれないときは公園で寝たり、車の中で生活する事もありました。

両親の離婚によって底辺の暮らしを味わってきたこと、そして過酷な生活環境の中で悩み、苦労して育ってきたダイアナは、ホームレスの人々の想いが痛いほどわかります。

実は、ハワイのホームレス人口は現在では一万人を超えたともいわれています。もともとハワイ在住の人だけでなく、気候が良いためアメリカ本土からホームレスになるためにハワイに来る人もいるほど。

彼らが抱えているのは経済的な問題だけではありません。陥ってしまった境遇への心の葛藤なども深刻です。そんなホームレスの立場が分かるのはダイアナだからこそ。

ホームレスの人たちを少しでも助けたい。
彼女の熱い想いが行動へとつながったのは2003年。彼女が大学1年生の時でした。ホームレスの人たちを被写体にした写真プロジェクトをスタートさせます。

かつてカメラマンだった父親の影響でしょうか。ダイアナさんも撮影に夢中になりました。

彼女がはじめたプロジェクト名は「The Homeless Paradise」。ホームレスの人々に焦点を当て、彼らの姿や生活を写真で赤裸々に語り、広く知らしめ、義援金を募り、ホームレスを保護できるようにすることが目的です。

プロジェクトをはじめて10年がたったある日の事でした。
交差点の角にたたずむ一人のやせこけたホームレスにカメラを向けたときに、ダイアナに衝撃が走ります。「あれは・・・」、そう、25年前に生き別れた父の姿だったのです。

おそるおそる近づくと、彼は誰もいない傍らに向かって、居るはずのない誰かと口論をしていました。
声をかけますが、まったく気づく気配がありません。

「娘であることを気づいてほしい。」そう思って父親の前に立った時、ホームレスの女性が来て「彼はいつもそこに立ってるのよ、邪魔するんじゃないよ」といわれます。ダイアナさんは彼女に対して「I have to try(やらなきゃいけないのよ」と言い返しました。彼は自分の父親なのだと世界中の人々に叫びたい気持ちでいっぱいでした。

幼い頃、大好きだったキャンディーを買ってくれたお父さん。まさか、父親と再会するなんて!
しかし、25年を経て巡り合えた父親は、あばら骨が浮き上がり、顔も体も痩せこけ、重度の統合失調症を患っていたのです。

ダイアナさんは、父親を人間らしい生活へ導こうと、1年半にわたりずっと彼に寄り添い、多くの時間を共に過ごしました。しかし、父親は彼女の申し出を受け入れず、薬も治療もすべてを拒否。

このままでは父は死んでしまう。
そんなある日、1本の電話がダイアナのもとへ入りました。父親が心臓発作で倒れたことを、ホームレス仲間がダイアナに知らせ、助けを求めてくれたのです。
すぐに父親を病院へ運び、治療を受けさせた事がきっかけとなり、父親は気力体力共に回復。更生プログラムによって仕事を得られるようにまでなりました。

大きな苦労を背負って生きてきた人生。ホームレスの人たちに寄り添い、役に立ちたいと行動してきた事、「人生そのものが贈り物なのです」
「私たちが今持っている全ての物に対して感謝の気持ちでいっぱいです。」
そう語るダイアナさんの姿は明るい光に満ち満ちていました。

参考資料
http://spotlight-media.jp/article/180283081876115750