人生を支えてくれる150通のラブレターと心の宝物

宮崎県で小児科医として100歳を目前にしても活躍されている貴島テル子さん。地元ではみんなの優しいお母さんとして多くの方から愛されています。おばあちゃん、お母さん、お孫さん…と親子で通われている方も多いそうです。

そんな貴島さんですが、ご自身にはお子さんがいらっしゃいません。その分、多くの子供の成長をみていこうと思い小児科医を選びました。
医師になろうと決めたのは生涯の伴侶であるご主人を戦争で亡くされてから、33歳で医師となりました。その後、50代で開業されて現在に至ります。普段の穏やかな笑顔からは想像はつきませんが、最愛のご主人が亡くなり、人生を絶望していました。

テル子さんの友人の兄であった政明さんは、海軍のパイロットをしていました。お父さんが外交官であり、海外生活を経験しているテル子さんは、はやくから自立した女性になりたいとの希望を持っていました。そして、この時代では珍しく政明さんはそんなテル子さんの希望を応援してくれていました。
二人は心を通わせるようになり、海外生活などで離れることがあっても気持ちがかわることはありませんでした。そのまま自然な流れで結婚の約束をしていたのですが、長引く日中戦争や第二次世界大戦が始まり、外交官であるお父さんは今後も戦争が激しく厳しくなると感じていたため、海軍の軍人である政明さんとの結婚を反対しました。それでも二人の気持ちはゆるぎないものでした。そしてとうとう昭和16年に結婚しました。

新婚生活…と言っても、戦争の最中です。政明さんは数日で隊に戻り、休暇と言ってもまたすぐに戻っていくという様子で新居を構える余裕もなくテル子さんは政明さんの実家で過ごしていました。この頃政明さんとテル子さんが交わした手紙は二人の愛があふれていました。

「本当の意味での清純な愛という言葉を、ぼくはあなたに心から贈ります」

昭和16年12月に真珠湾攻撃から太平洋戦争がはじまります。
そしてこの後、政明さんからの手紙は
「軍人として立派に死ねるように願ってほしい」
というような死を覚悟した内容ばかりになっていきます。手紙の検閲があったとしても、今までとは全く違う戦争や死についてばかりの内容…戦争が政明さんを変えてしまったのではないだろうか…テル子さんは不安な気持ちになっていきました。
そのうち、いくら手紙を出しても返事が全くないままの状況が続きます。

開戦の翌年、テル子さんに小包が届きます。今まで政明さんが出せなかった手紙と戦死通知でした。

結婚後1年足らず、共に過ごせたのは数十日…。最愛の人を亡くしたテル子さんの気持ちは想像を絶するものがあったと思います。
日々泣き暮らし、絶望の淵にあったテル子さんを救ってくれたのは、やはりご主人からの愛のあふれる150通もの手紙でした。
戦死後に送られてきた手紙の多くは軍人としての死の覚悟についてばかりでしたが、その中にはテル子さんに宛てた遺書がありました。

「最愛のテル子へ 余亡きあとしかるべく身を処されよ 良縁あれば遠慮するなかれ テル子の将来の幸福を祈りてやまず」

自分のことを最後まで心配してくれていた政明さん。テル子さんは政明さんと語り合った夢、そして応援してくれていた夢を思い出したのです。政明さんの想いに報いるためにも自立した女性を目指すことを心に決めました。

政明さんのお父さんは開業医であったため、政明さんの代わりに医師になるべくテル子さんは猛勉強をして28歳にして女子医専に合格し、33歳で医師となることができました。そして貴島の家に戻り、54歳で開業をして地元に根付いた医療を小児科医として行っています。現在でもテル子さんは政明さんと同じ「貴島」姓を守っています。

テル子さんは戦後、政明さんの戦友が主催する戦死者慰霊祭に度々参加していました。そこで政明さんと同じ部隊に所属していた男性と出会い、政明さんについて詳しく聞くことができました。政明さんはテル子さんが送ったテル子人形を肌身離さず持っていたそうです。もちろん最後の出撃の時も…。きっと最期は最愛の人が送ってくれた人形と共に逝ったに違いありません。

政明さんは戦争で人が変わってしまったのではなく、それまで以上にテル子さんを愛してくれていたのです。テル子さんのわずかな不安は取り除かれました。

今でも変わらずご主人を愛しているというテル子さん、心に宝物が持っていればきっと自分を支えてくれる…と伝えてくれています。もちろん政明さんからの手紙は宝物だけれども、心に宿る宝物はテル子さんを想いながら手紙を書いている政明さんの姿かもしれません。

参考資料
http://femininse.me/senses/45/
75年目のラブレター